銀座一丁目新聞

安全地帯(512)

信濃 太郎

良きかな秋の詩と歌

友人霜田昭治君と英訳と英語の日本語訳などについて意見を交換していたらこのほどメールが届いた(9月3日)。「7月10日の毎日新聞にフランスの詩人ヴェルレーヌの詩を「秋の日のヰ゛オロンの ためいきのひたぶるに身にしみてうら悲し」と邦訳した上田敏の記事が載っていました。 「訳詩の命は日本語表現だから逐語訳は否定した」という。 この邦訳詩は私の諳んじている愛唱歌の一つで時々口ずさんでいる。 訳詩者は上田敏だけだったと思っていたら「堀口大学、金子光晴、窪田般彌」ら錚々たる詩人も訳していたのを最近知りました。 併し、人口に膾炙しているのは上田の訳詩だけでしょう。  理系の文献は実験で検証できるが、詩に限らず政治経済など文系の書も日本語表現が命だと思う。海外の名著の翻訳にも競争があってしかるべきだろう。 毎日新聞の記事には、堀口大学の「私の耳は貝のから」 井伏鱒二の「ハナニアラシ」も載っていました。之も心に残るいい詩ですね」とあった。

私は俳句を作り出してから唐詩選・万葉集・源氏物語などに目がゆく様になった。源氏物語には「もののあわれ」の奥深さを知った。月を眺める感覚は鋭い。「泡と見る淡路の島のあはれさへ 残る隅なく澄める夜の月」もあれば、「冬の澄んだ月が雪の上にさした無色に風景が身にしむ」とも表現する。秋は“芸術の秋”。詩歌に遊ぶのも一興である。上田敏の「落ち葉」、堀内大学の「秋の歌」でも口ずさんでみよう。

「落葉」
秋の日の/ヰ゛オロンの / ためいきの /ひたぶるに/身にしみて/うら悲し。
鐘のおとに/胸ふたぎ/色かへて/涙ぐむ/過ぎし日の/おもひでや
げにわれは/うらぶれて/ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。(上田敏 『海潮音』より
「秋の歌」 
秋風の/ヴィオロンの/節(ふし)ながき啜泣(すすりなき)/もの憂き哀しみに
わが魂を/痛ましむ。 (ポ-ル・ヴェルレーヌ・堀口大學訳)
今年は上田敏没後百年という(1916年7月9日に死去・享年41歳)。帝国大学英文科に学ぶ。師である小泉八雲は英学生として「万人中の一人」とまでいったという。独・仏・伊語にも通じた言葉の魔術師で訳語には古語,漢語さらに仏典や俗語にまで及ぶ語が多用される訳詩のいのちは日本語表現だから逐語訳は否定したという(7月10日毎日新聞「長谷川郁夫・選・訳詩集」より)。

さて、メールにあった井伏鱒二の『ハナニアラシ』の漢詩は次の通りである。作者は于武陵。進士の試験に合格したが仕官せずに諸国を放浪する。題は「勧酒」。括弧内は井伏鱒二の訳。

「勧君金屈巵(コノサカズキヲウケテクレ)
満酌不須辞(ドウゾナミナミツガシテオクレ)
花発多風雨(ハナニアラシノタトエモアルゾ)
人生足別離」(「サヨナラ」ダケガジンセイダ)
長谷川郁夫さんは「勧酒のいささかぶっきらぼうな七五調は、居酒屋の隅に腰を掛けて、ほろ酔い気分で口ずさみたい。昭和の青春である。あの飲み友達は何処へ行ったのか」としたためる。井伏鱒二が死んで23年(平成5年7月10日死去・享年95歳)たつ。
「人生足別離名訳残し秋来る」悠々
「巡り合い縁が結ぶ糸なれどさよならだけが人生と知る」悠々
「港町出て行く船に別離ありさよならだけが人生波の音」悠々