銀座一丁目新聞

茶説

歴史をかえた名訳・誤訳

 牧念人 悠々

国際協調の世の中。異文化との交流は欠かせない。そこで言葉が問題となる。日本語を英訳するのは難しい。同時に英語を日本語に訳すのも大変だと思う。万葉集に興味のある私は万葉の歌を英訳するのに苦労がいるとつい思ってしまう。例えば山上憶良の「神代より 言い伝えて来(く)らく そらみつ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめがみ)の厳(いつく)しき国 言霊の幸はふ国と語り継ぎ 言ひ継がひけり…」(卷5・894)。「言霊の幸はふ国」は何と訳すのか、翻訳者の腕の見せ所であろう。

「It has been accounted down through time since the age of the gods:
that this land of Yamato is a land of imperial deities‘ stern majesty, aland blessed with the spirit of words…」
(リービ英雄著『英語で読む万葉集』・岩波新書) 。

夢を見た。リオ五輪では日本は金メダル12個を獲得した。その都度、国歌「君が代」が会場に流された。閉会式にマリオの姿で登場した安倍晋三首相はIOCの会長から「君が代」は英語でどういうのかと質問された…そこは次の五輪主催国である日本の首相補佐官が見事に答える。
「Ten thousand years of happy reign be thine:
Rule on, my lord, till what are pebbles now By ages united to mighty roks shall grow Whose venerabble sides the moss doth line」
(訳・英国人バジル・ホール・チェンバレン『続歴史雑学事典」日本編・毎日新聞社編より)

Basil Hall Chamberlain(1850―1935)は日本研究家。明治5年来日、東京大学の前身の文科大学で言語学を教えた。明治43年日本を去る。彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり、『古事記』などの英訳もある。「君が代」の歌詞は「和漢朗詠集」からとったもの。

今、鳥飼玖美子著『歴史をかえた誤訳』(新潮文庫・平成23年3月20日6刷)を読んでいる。鳥飼さんが歴史をかえた誤訳の例として敗戦間際、日本の無条件降伏を要求してきたポツダム宣言に対する日本の回答を上げる。日本は「ignore」(無視する)と回答した。せめて「give it the silent treatment」(静観する)と表現しておけばよかったのではないかという。この表現であれば日本政府の真意をくみ取って原爆は投下されなかったのではないかと推測する。

いずれにしても戦を終わらせる決断が遅かった。

そこで思い出した。日本政府が広島、長崎に原爆が投下された後の8月11日に「天皇の国家統治の大権を変更しないとの了解のもとにポツダム宣言を受諾する」と連合軍へ打電した。翌12日に回答があった。5項目からなる回答のうち問題になる個所が一つあった。「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は、占領等にあたる連合軍最高司令官の”be subject to”するものとする」である。「be subject to」は「従属する」と訳すのが常識である。これでは軍部が反発する。そこで東郷茂徳外相らは「制限下に置かれる」と訳した。閣議では大いにもめたが最後の御前会議で陛下は東郷外相の解釈を取られ聖断を下された。ポツダム宣言受諾の電報は8月14日午後11時スイス、スウェーデン公使館向けに打電された。この「制限下に置かれる」という日本訳で「詔書必謹」で国民の気持ちが固まった。名訳と言っていい。

鳥飼さんの本を進めてくれた友人の霜田昭治君からこのほど手紙をいただいた。この6月に邦訳が出たヘンリー・キッシンジャー著「WORLD ORDER」(日本経済新聞出版社)に誤訳があるというのだ。それによると、問題の一節はキッシンジャーが1961年(昭和36年)トルーマン元大統領に面接した時「在任中最も誇らしく思ったことは何か」との質問にトルーマンが答えて「敵国を徹底的に打ち負かして諸国家の共同体に引き戻したことだ。それを果たしたひとりのアメリカ人だと思いたい」という訳文である。違和感を覚えたと言う。ネットでamazonの読者書評欄を調べると、やはり誤訳に気付いた人がいて、“ひとりのアメリカ人だと思いたい”の原文“I would like to think that only America would have done this”は正しくは「アメリカだけがなしえたと思いたい」とミスを指摘していたという。

更に霜田君は表題が「WORLD ORDER」とあるから「世界秩序」と訳すべきである。原著者は本文の中で「International Order」(邦訳「国際秩序」)と使い分けをしているので、本の表題「WORLDO ORDER」を「国際秩序」と訳すのは誤訳であると指摘する。今回の場合、誤訳というより初歩的なミスだといってよい。東京大学教授 久保文明さんが日経新聞(8月20日)に掲載したこの著書の書評の最後に「やや訳文が読みにくいのが残念である」と批判している。日本経済新聞社はキッシンジャーの名著「外交」(上・下)を1996年6月17日に刊行している。この時、翻訳者は外交官の岡崎久彦さんであった。訳文はこなれており非常に読みやすかった。今回,すくなくとも監修者として外交官出身者を選ぶべきであったように思う。内容が興味深いものだけに残念でならない。