銀座一丁目新聞

追悼録(607)

ジャーナリスト武野武治さんを偲ぶ

尊敬するジャーナリスト武野武治さんが亡くなった(8月21日、享年101歳)。昭和20年8月14日、敗戦の前日、記者としての戦争責任をとるため朝日新聞社を退社する決意を表明する。その夜、東京本社報道第二部(社会部)の部会が開かれた。武野武治記者が発言した。「明日から来ない。間違った新聞を出した人間は退き、新しい時代の新しい時代の新聞を創る資格のある人たちが作ったらいい」。部長は新垣秀雄。武野は当時30歳であった(新聞と「昭和」上・朝日文庫新刊より)。恐らく敗戦時、新聞社の平の部員で戦争責任を取ったのは武野記者一人だけであろう。武野は戦後、郷里に帰って、秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊する(昭和23年、昭和53年に1780号で休刊)。地方紙として“在野性”を遺憾なく発揮した。例えば「たいまつ」(昭和45年)にはこんな記事が載った。題して「戦争を知らない世代の戦争観」(一女性)「戦争を許した民衆の無知が怖い。無知は続いている。昭和史をひもといても、時として民衆が自分の手で自分の首を絞めている場合が多いのに驚く。端的な話が、自民党に300議席を許した民衆の選択は、自らの運命を悪魔に委ねたことを意味している。知らざるものは幸いなり、では、歴史は悪魔の味方でしかない」(注・自民党の「300議席」・昭和44年12月に行われた総選挙で自民党が大勝(288議席)、追加公認を含めて300議席の大台となった。この選挙で社会党は初めて100議席を割り90議席。共産党は14議席、公明党は47議席、民社党31議席。投票率68.51%)

私の手元に武野さんが出した「詞集たいまつ」人間に関する断章604(三省堂新書・昭和42年10月10日再版発行)がある。心に響く珠玉のような言葉を紹介する。

「青年を見てその国の将来を占うより、その国の親たちが青年をどう扱っているかを見てその国の将来を占う方が、ずっと正確にあたる」
「忘却による過誤を犯したくないなら、いつでも息子たちを見つめながらものを考えることである」
「やらねばならないことだとわかっていて、誰かがやるだろうと待っているのは二重の悪意である」
「目標のない人間は、机にすわっても学ぶことができない。目標のない人間は、首をかしげても考えることは出来ない。「どうするか」を考えない者に、「どうなるか」は見えない。
「素晴らしい親があるとすれば、それは子供を叱る際に平常の音声を保つ親である」
「ジャーナリストは何であっても良いが、決してオポチュニストであってならない」

次の言葉でこの追悼録を終わりたい。

「顔は正直な名刺である。人はめいめいの顔に責任をもたなければならない」

武野武治さんと生前一度だけ「小さな地方紙」について僅かな時間、話す機会があっただけである。心からお悔やみ申し上げる。

(柳 路夫)