銀座一丁目新聞

安全地帯(511)

信濃 太郎

こやま峰子著・藤本将画の詩集「未来への伝言」

40編の詩と33点の挿絵で描くこやま峰子さんの自伝的詩である。こやまさんは縁故疎開をした先で敗戦を迎える。この間、お蚕さんを飼う部屋で寝起きし、「机の中に蛇がいた」いじめにもあい、心の中で叫ぶ「戦争のバカ バカ」。時に9歳。「絶対勝つと教えられ そう信じていたけれど 原子爆弾を 廣島長崎に落とされ 苦い敗戦 苦い降伏 けれど行く先は きっときっと幸福駅のはず…」(発車)。私はこの時19歳。軍の学校に居た。富士山で野営演習中であった。一週間連続の夜間演習など訓練は厳しかった。戦後は食糧難であった。「夕食はささやか 庭で育てたトウモロコシやサツマイモ カボチャをふかすだけ 子供たちがとってきたイナゴもつくだににしたり いったりしてたべた 蛙も…食べた」(復興)。愛知県岡崎市に復員した私はサツマイモの記憶が鮮明である。母親が近郊の農家へ行ってしばしば着物を食べ物に替えていたのを記憶している。

「血のメーデー事件がおこった 終礼のとき まっすぐ家にかえるように と 先生の言葉 好奇心の蕾が めざめる 足は 皇居前広場に向かう」(メーデー)。1952年、皇居前広場は使用が禁止された。前年の9月、講和条約が調印され日本は独立した。5月1日は独立後初めてのメーデーであった。東京のメーデーは明治神宮外苑広場で15万人が参加して開かれ、午後零時20分5地区に分かれてデモ行進に移った。毎日新聞社会部記者の私は警視庁記者クラブ詰であった。デモの様子を見てデモ隊は明らかに皇居広場を目指していると判断した。そこで友人の記者と現場にとんだ。予想通り、皇居前でデモ隊と警官隊の小競り合いが始まった。警官隊側におれば安心であろうと警官側に居た。ところが案に相違して警官隊がデモ隊に圧倒されてお堀側の二重橋側寸前まで押された。警官隊は催涙ガスを使用し拳銃を発射して鎮圧に勤めた。原稿を送るどころではない。電話があるところまでいけない。当時はケイタガ電話がなかった。遂に夕刊には一行の原稿も送れず大失敗をしてしまった。この時、こやまさんは16歳。女学生であった。「足が皇居前に向かう」とはその好奇心の旺盛さに感心する。この事件でデモ隊に死者2名、重軽症者500名。警官隊は832名の負傷者を出した。

それから8年後の1960年(昭和35年)日米安全保障条約改定の全国反対闘争が展開される。「国会のまわりに毎日 数万人がデモ行進 はじめてのさんかだったので 10人ほどの隊列の真ん中に入れられた 日本の行く末に不安をつのらせながら 竹竿にしがみつき みえない足を前に前に」(初めてのデモ行進)。翌朝の新聞は警官隊との衝突で東大生樺美智子がなくなったと報じた。こやまさんは23歳か。私はこの日、第二社会面の担当であった(昭和35年6月15日)。現場から来る原稿を見ている限り警官隊はデモを国会内に誘い入れて“鎮圧”する方針に見えた。その乱闘の中で樺美智子さんは死んだ。当時のデスクと部長は感情的な文章を削り事実を事実として紙面作りをした。ところが翌朝の他社を見るとデスクや部長が相当手を入れたと見えて事実とかなり違った報道をしていた。後で分かったことだが、ある社は編集主幹の号令のもと前部長が居残り、送られてくる原稿を全部チェックしたという。毎日の紙面を見て読者から感謝と激励の電話がかかってきた。販売店からは「よかった。良かった」と酒が持ち込まれた。社会部長は上司から「こんなセンチメンタルな紙面を作って」と叱責を食らったという。

「若造が どやどや やってきて楽しげに笑っている ここはリゾート地ではない! 週末を砂浜で たわむれるところではない 鎮魂の心を ささげるところ 悔恨のこうべを ふかくささげたい」(沖縄の心)。毎日新聞の西部本社代表を6年務めた。沖縄に行く機会が数回あった。その都度,摩文仁の丘にお参りした。第32軍軍司令官はその前、陸軍士官学校の校長であった。

「内戦がおこり 3年後 和平がきたけれど 内戦中にまかれた100万個の地雷に 罪もない子どもたちが一生 苦しむ」(ボスニア・ヘルツゴビナへ)、こやまさんの眼は世界の子供へ注がれ、平和をもとめてやまない。1992年(平成4年)、旧ユーゴスラヴィア連邦からのボスニア=ヘルツェゴヴィナ独立に際して民族対立から深刻な内戦がおきた。セルビア側の民族浄化を掲げた行為が非難され、NATO軍が介入、1995年に停戦が成立した。

「被爆した広島電鉄の敷石が 市民の手で 平和のメッセージを刻み込まれ おくりとどけられる。世界に平和の輪が広がってほしいとねがい 受け止めてくださった国が100ヵ国以上になる」(祈りの石)。1968年(昭和43年)電車の敷石が交換され、広島電鉄から意志が払い下げられた。その敷石200個余りに「観音像」と「FROM HIROSIMA」が刻み込まれた。それを「祈りの石」として1991年(平成3年)から世界各国に「平和希求のメッセージのシンボルメッセージ」として送り続けられている。

こやまさんは最期に「試練」で締めくくる。

「時のながれのひとこまは 過酷なことがおおい つらいけれど 試練とうけとめ あきらめず 明日へ 明日へ おおいなる天の恵みに まもられながら あゆみつづけたい」。