花ある風景(606)
並木 徹
二人だけの出版社の21年の歩み
二人の女性だけの出版社「藍書房」(東京都渋谷区恵比寿)が8月25日で21年目の誕生日を迎えた(当初は3人で始めた)。二人とも本大好き人間、ともに出版編集の経験を持つ。組織に生きるのを潔しとせず独立する。昨今は自費出版を心がけている。これまで資金繰りに困ったこともあったであろうがついぞ弱音を聞いたこともなかった。「継続は力」。エールを送りたい。
出版は「創造と挑戦」だという。手元にある藍書房の本を見ていると、けなげにも「良書」へのあくなき挑戦であったように思う。先ずあげたいのは鳥海昭子さんの『あしたの陽の出』(1996年=平成8年=3月31日刊)。16本のエッセイはいずれも珠玉の文章である。私が好きなのは「謹んで申し上げます」の一文。大学出ながら洗濯係からスタート、副施設長代行まで務めた養護施設についてその生活ぶりを書いたもの。東京都の功労賞受賞のために書かされた都知事あての“作文”が中心だが、カバンの切れたひもを頑丈につくろったら子供から「おばさん、神様」と言われたなど施設でのエピソードが綴られており、涙なくしては読めない。書き出しは「謹んで申し上げます 矢萩草は弓矢の形に切れます」ではじまる。鳥海さんの歌「ばんざいの姿で蛇に銜えられ春らんまんの蛙いっぴき」が朝日新聞「折々のうた」に紹介されたことがある(平成12年4月1日)。
次が和歌山県花園村村長であった部矢敏三さんの『山峡の賦』(1996年8月28日刊)。収められた歌291首。歌の良さを今更のように教えられた。
「何も彼も山越えて来るわが村よたとえば鰯雲もあなたも」
「煩悩に擬して彫たる鬼の面かなしきまでに口歪めり」
部矢さんにはお世話になった。私の主催するマスコミ口座に講師として来ていただいた(平成8年2月)。文化を愛する部矢村長は人口620人の村に劇団『ふるさときゃらばん』のミュージカル「噂のファミリー一億円の花婿」を村会議員たちの反対を押し切って上演した(2001年3月)。その部矢さん、今やなし。平成20年1月この世を去られた。享年80歳。
飛田八郎の著作。私の手もとに6冊あるがいずれも興味深く読んだ、特に「黒いプカプカ」(2006年11月28日刊)に感銘した。新聞記者であった父親を含めた自伝的な内容だが「戦時下の記者」の項は特記すべきものであった。戦争中新聞は当局の言いなりであったといわれるが、その反証として昭和20年3月10日の東京大空襲の新聞の第二面の記事は検閲をくぐって滲み出る現実が書かれている。社報にも「新聞人の新聞を作る」といい、「誠実に自由奔放に仕事をやっていただきたい」と健次は書き、戦争下でも「自由奔放」を説いた。その父は昭和18年ごろ「戦争が終わったら新聞記者は死刑だ」という言葉を口にしている。戦争に加担したという意識があるからであろうか。戦死する2年前に記者時代の一切の原稿を処分したという。当時の新聞記者がそれほどまでの覚悟をしたとは知らなかった。
思い出に残るのは同期生西村博君から夫人玲子さんの俳句集「足跡」の出版である。「(2006年12月4日刊)。「どこかよい出版社を知らないか」と西村君から頼まれた。2006年の春ごろであった。毎日新聞の出版局も考えたが二人が俳句をたしなみ、丁寧な仕事をする「藍書房」にお願いした。その頃、玲子さんはアルツハイマーで介護老人保護施設に入っておられた。西村君が出来上がったばかりの俳句集を届けると胸に抱きしめて喜んだと聞いた。玲子さんは2013年(平成25年)8月22日死去された。享年85歳であった。
「旅の苞夫に何せむ父の日ぞ」玲子
「若き日の夫なつかしや終戦日」玲子 (昭和20年8月15日、西村君と私は一緒に西富士野演習場で玉音放送を聞いた)
二人に迷惑をかけたのは「女性が読まない新聞は滅びる」(1997年6月20日刊)の出版である。予想に反してベストセラーにならなかった。申し訳ない。私としてはスポニチ時代の資料が豊富に書かれているのでものを書く上でしばしば利用している。感謝のほかない。二人に送る歌。
「書くことは考えること生きること明日の日の出は5時8分」(注・8月25日の日の出の時刻)。
二人とは小島弘子さんと渡辺ゆきえさんである。