追悼録(606)
野球評論家・豊田泰光さんを偲ぶ
元プロ野球西鉄ライオンズ内野手・豊田泰光さんが亡くなった(8月14日・享年81歳)。現役を引退した後、1986年(昭和61年)から25年間、スポニチの野球評論家であった。豪放な方で常に臆せず正論を吐く人で知られるが、二度ほど麻雀のお付き合いをした私は繊細な人という印象の方が強い。豊田さんの訃報を知らせる8月16日のスポニチに豊田さんが当時皇太子であった天皇陛下と一緒に写っているスクープ写真が掲載された。これは1957年(昭和32年)1月9日にスポニチの一面を飾った写真である。前の年の日本シリーズでMVPを受賞した豊田さんが皇太子さまにMVP記念のサインボールを手渡した記念撮影である。実はこれは正月企画であった。
この話を知ったのは私がスポニチの社長時代である。定年退職者が出る度に彼らと雑談、昔の苦労話を聞いた。その時に名前を忘れたが豊田さんがサインボールを献上した話が出た。ともかくスポニチの創成期の取材の苦労話は実に面白かった。それが平成2年10月から半年間「スポニチ三国志」として連載された。この出来事は連載のきっかけを作った一つのエピソーであるのは間違いない。このスクープ写真の裏話を、豊田さんを偲びつつ追ってみる。
昭和31年8月、当時の社長宮本義男から「正月企画を出せ」と指示が出た。「正月用の企画は、盆の内に立てる。これが鉄則である」と言うのが宮本社長の信念であった。そこで運動部の岩崎達デスクが思いついたのが「天皇陛下に今年のプロ野球の最高殊勲選手がサインボールを差し上げるという写真」であった。これに写真部長の吉田達二がすぐに応じた。陛下ではあまりにも恐れ多いということで明日の日本を象徴する皇太子さまに代わった。早速、宮内庁に許可願いが出されたがあっさりと門前払いを食った。宮本社長はこの企画を諦めたが二人はあきらめなかった。シャッターチャンスは赤坂の東宮御所よりも葉山御用の方が多いと判断して鎌倉署に日参して皇太子さまの日程を調べた。すると12月5日、皇太子さまと義宮さまが病気で臥せっている乳母のところにお見舞いに行かれることがわかった。乳母の家は車で降りられてから150mぐらい離れ居り、歩いてゆかねばならないところにあった。そのお帰りを狙った。岩崎デスクは毎日新聞時代、事業部員として毎日新聞が主催するスキー大会に皇太子さまをご先導した経験を持つ。「殿下お久しぶりです。毎日新聞の岩崎です。スキーの時お世話になりました。」「プロ野球の本年度の最高殊勲選手、豊田泰光がサインボールを献上に上がりました。どうぞお受け取りください」それを吉田が何度もシャッターを押した。
数日後、宮内庁から親会社の毎日新聞に勧告があった。「もし掲載をやめないときは、毎日新聞を含めて宮内庁としては今後一切、取材に協力できかねる」スポニチが粘って話し合いを持ち「松の内以外ならば」と写真の掲載に話がついた。今でもこの写真は豊田家の家宝になっているという。
(柳 路夫)