安全地帯(506)
相模 太郎
相州藤沢宿 遊行寺(ゆぎょうじ)
正式には開祖一遍(いっぺん)上人の時宗(じしゅう)総本山、藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺と称する。人々は遊行上人――代々お札(ふだ)を配り念仏をすすめ踊りながら全国を歩いた時宗の僧侶――の住む寺として、通称遊行寺と言った。旧東海道の戸塚宿より藤沢宿へ降りて行く坂の途中にある藤沢市の大寺院であり、正月の大学駅伝は門前を走る。JR・小田急藤沢駅北口より参道の面影が残る商店街を通り約10分で山門正面に達する。同寺院は鎌倉と違い庶民的で、解放的、だれでも本堂まで上がってお参りできるし、境内には縁日、植木市、骨董市も出るし、無料の薪能(事前申込)もある。しかも旧跡が多い。湘南方面へお出かけの節はぜひご参詣をおすすめする。横の旧東海道遊行寺坂の入口から入れば、ふだんなら無料駐車場もある。
駅から、藤沢橋交差点横の朱塗りの橋を渡り、山門に向かって右側に高さ1.5mほどの大きな榜示石(ぼうじいし)が立っている。むかしの土地の境界石で、「門前先通道幅四間二尺」と彫ってある。山門をくぐり桜並木のゆるい坂の石段をのぼると正面に大伽藍が見えてくる。左手の大イチョウは台風で枝を損じたものの、数百年の歴史を感じさせる。後醍醐天皇の御代、帰依していた地頭の俣野氏によって建立された。右手には開祖一遍上人の遊行姿の銅像がある。一遍上人は壇ノ浦、元寇で活躍した瀬戸内海の河野水軍の出身、10才で仏門に入られた。往生(おうじょう)は、ただ「南無阿弥陀仏」によってなされるとの悟りを開かれた。像はみすぼらしい衣をまとって遊行の行脚(あんぎゃ)されているお姿だ。時宗の僧侶は鎌倉時代から従軍僧として戦場で敵味方の区別なく戦死するものに引導(いんどう)を渡す、戦死者供養をするのが役目であった。一遍は、ひたすら念仏を唱え鉦(かね)などに合わせ踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」により、人々の共感を得、行く先々に伝播していった。現在も配られる「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」というお札(ふだ)はそのころからのものである。
本堂裏手にまわると長生院という子院がある。別名小栗堂だ。浄瑠璃の小栗判官、照手姫の墓がある。応永29年(1422)8月常陸小栗の城主小栗満重が足利持氏に攻められ落城、その子助重を連れ逃げ延びる途中、藤沢で横山太郎に家来とともに毒殺され、子の助重はかろうじて妓女照手が助け逃がした。後、助重は再興し、照手を妻にむかえた。助重の死後照手は剃髪し、主従の墓を守りこの長生院で終わったという。そこには十数基の墓がひっそり建っている。
また、その奥を登ると元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の際、北条高時の家来南部茂時も主君とともに自刃し、家来がその遺骸を当寺に運び埋葬供養、いま一基だけひっそり建っている。南部氏は山梨県最南、南部町の出身で、のち岩手県へ(同県を南部というのはそれから)転封になった氏族である。
下に降りて来ると本堂左に安政6年(1859)建立の一番古い建物、中雀門がある。菊のご紋(天皇家)と三つ葉葵(徳川家)が刻まれている。そばの放生池(ほうしょういけ)は伝説で、元禄時代奢侈禁止で江戸の金魚を集め、ここに放したそうだがそんな大きな池ではない。
そのほか境内には時宗の面目躍如の博愛、衆に及ぼす「敵味方供養塔(怨親平等の碑)」(国史跡)、宝物館(開館日土日休日)も一遍上人の遊行のボロの衣、念仏を唱え、民衆が踊りながらついて歩く聖絵(ひじりえ)(国宝)をはじめ貴重な品々が展示してあるが、一隅に、歴史書などによく掲載さている四角な冠をかぶられた後醍醐天皇の朝鮮風?尊像(重文)の絵画が、掲げられていたのを拝見したことがあった。応永元年(1395)京都醍醐寺から伝わったものとされる。現在展示されているか不明。
かつて広い堂内で開山忌に時宗独特の節回しの念仏を唱え、唄いつつ15人ぐらいのご婦人の信者が、輪になって首からさげた鉦(かね)を撞きながら太鼓にあわせ、念佛踊りをされていたのを拝見したが、不思議にもかつて訪問した信州の佐久には、時宗でない他宗派の寺に「踊り念仏」が残っていて、おそらく宗派を問わず広く「踊り念仏」だけが伝播していた名残らしい。
感銘を受けるのは「一つ火法要」。11月27日の日没後より立錐の余地ない堂内で、本年一年間のざんげと、清浄になって新年を迎えるためと、極楽往生の体得法要がある。まず、一切の灯火が消され漆黒の中、上人の低いしずかな念仏が聞こえてくる。人々はかたずをのんでいると、やがて上人が火打ち石で着火、念仏とともに灯明が次第に明るくなり、堂内がもとにもどっていく。「静から動」への演出が荘厳で人々は感激し、仏法に救いを見出すのであろう。勿論撮影は禁止、そして最後にお上人より「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をめいめい戴いて退出する。
異聞。「名月赤城山」「赤城の子守歌」。正門左手の墓地に上州侠客(博徒?)国定忠治の子分板割朝太郎の墓がある。捕り手であった彼のおじ三室(みむろ)の勘助が赤城山へ逃げる忠治に退路をわざと聞こえるように言ってくれたのを忠治は、逆恨みして子分の朝太郎におじを斬らせ、首実検をした。かれは世の無常を感じ、僧になって遺児勘太郎を背負い諸国を行脚したという物語。実話としては、信州佐久の金台寺へ入り、のち同宗の相州遊行寺に移り勤行、朝太郎の法名は列成(れつじょう)、明治13年(1880)当寺が火災に遭い再興のため、60才にも関わらず全国を勧進僧とし浄財を集めて行脚し、明治26年(1893)12月30日74才で没した。ちなみに、小生かつて、意外にも朝太郎が諸国行脚した足跡と思われる供養碑を、島根半島先端の美保関で見たことがある。卵塔の墓石に、「当院(子院の真徳院)四十二世 洞雲院阿弥列成和尚」と刻まれ、立派に院主とし天寿を全う、もって瞑すべし。
遊行寺 正面
本堂
時宗開祖 一遍上人像
中雀門 正面菊ご紋
板割浅太郎の墓
放生池
念仏踊り
左から、お札 散華 お札
(散華は僧が念仏を唱え撒く)(筆者撮影)