銀座一丁目新聞

追悼録(601)

巖谷小波の俳句考

巖谷小波は童話作家と知られる(1870年・明治3年6月6日生・1933年・昭和8年9月5日死去・享年64歳)。父は書家・巖谷一六。小波(本名季雄)が医者になるのを望み、早くからドイツ語を習わせるが小波が嫌って文学の道に進む。杉浦重剛の称好塾に入り、大町桂月・江見水蔭とともに塾の三文士と言われた。祖母の感化で画、歌、俳句をたしなむ。10歳の頃に「15日今か今かとまつりかな」(山王祭)をつくる。明治23年、尾崎紅葉が始めた紫吟社に入る。この時の俳句に「岩藤や君に着せたき染模様」がある。平凡言えば平凡だが「岩藤」(花の形が蝶に似る・季語夏)と表現したところに小波の鋭さを感じる。戸川残花や角田竹冷は俳句友達である。戸川残花が顧問をしていた大日本婦人会(創始者松本荻江)の依頼でお伽噺口演を始めている。後に来島武彦とともに全国を廻るようになる。この頃、小波は博文館(明治27年入社)の「少年世界」の主幹でお伽噺を連載、好評を博していた。いつしか俳画と童話口演を結びつけた世話人が出来,俳画10本に童話口演2ヶ所となる。俳画は個性がにじみ出て玄人の域に達していたといわれる。小波は明治28年10月に結成された明治新派俳句各派の中で最も大きい「秋声会」(主宰・角田竹冷)にも属している。明治俳論の開幕者は正岡子規だが、結社を一番先に作ったのは尾崎紅葉である。その意味で小波は子規と一線を画す。「秋声会」には尾崎紅葉・巖谷小波・大野酒竹・川上眉山・佐藤飯人・堀江蝶夢・三森松江・酒巻朱竹・高橋竹園・村木祖柏らがいた。旧派宗匠たちを含んでいた。この人たちは正岡子規の日本派を「書生俳諧」と軽蔑していた。一方「秋声会」は「閑俳」「遊俳」と言われた。これに対して小波は「所謂新派なるものには、その頃既に子規を中心とした一名根岸派なるものがあったが、主に少年気鋭の士、ことに学生気の抜けないものが多かった。我が秋声会は他に一職をもって既成紳士が大多数であった。だから新進組からは皆複業の楽俳遊俳として毛嫌いされた観があった」と達観している。だが、時代の流れで次第に正岡子規の写実俳句に近づく。

「初袷写真写してみたりけり」小波(明治31年8月『俳諧木太刀』)を見ればわかる。

明治33年9月ベルリン大学東洋語学部講師としてドイツに行く(2年間)。ベルリン在留邦人と「白人会」を作り、小波が中心となって俳句の同好会を開く。俳句がよほど好きだったとみられる。

「月鉾の雨に侘しき囃かな」(明治36年9月「俳諧新潮」)。

「福寿草正に南山の産なるべし」(同)
このほか次の句がある。
「雨蛙梢に雨を称えへけり」

「初日の出海に一ぱいの御旗かな」

「若干の詩債もありて冬籠り」

村山故郷著「明治大正俳句史話」(角川書店・昭和57年4月15日初版発行)には小波について「秋声会中最も長い俳歴を有するがその句は軽妙洒脱に過ぎて浮薄の嫌いがある」という表現がある。軽妙洒脱を認めるにしても何をもって「浮薄
と批評するか理解に苦しむ。
10歳の時、ドイツ留学の兄立太郎からドイツ語で書かれたオットーの童話集(1880年=明治13年)が贈られている。この本は各国の有名な童話集めてある6百頁の絵入りの美しいものである。ドイツ語学習のために兄が送ったものだが逆に心が文学に向かう。評判となった「こがね丸」にしても動物の仇討物語である。さらに彼の教育論に注目したい。『我が日本の将来は,より大により強くあらねばならない。それにはその国民を作るべき、教育の方針を根本的に改革して、従来の姑息な注入主義を避け専ら放胆開発主義を取りたい。頭ばかり血がのぼらせて腹に力のないような人間、精神のみ勝って、実力のともなわない国民は断じて作りたくない」とその所信を述べている(大正4年5月「桃太郎主義の新教育」より)。『俳句は人なり』。俳句にその人の人格が出る。東京芝公園増上寺境内にあるにある巖谷小波記念碑に刻まれた「桜咲く日本に生まれ男かな」の句がすべてを物語っているように思う。

(柳 路夫)