安全地帯(505)
相模 太郎
信州の鎌倉 塩田平(しおだだいら)
6月初め長野善光寺へ参り、それから上田市の南西、塩田平の奈良時代からの名湯別所温泉に一泊した。実は本誌4月20日号に小生の百観音巡拝成就の記事を載せていただいた続編になるのだが、西国・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所巡りが終わったらば、來世(らいせい)のご利益(りやく)をいただくため長野善光寺へお礼参りをするきまりになっているそうで、また、前述の別所温泉にある北向(きたむき)観音へ現世利益(げんぜりやく)をいただくため参詣をしないと「片参り」となるとのことで訪ねたのであった。あり難く同寺院のご朱印をいただく。お寺は享保6年(1721)再建されたものだが、年代を思わせる絵馬の数々、厄除け観音とし、北方、長野善光寺を向いているといわれる。ちなみに、西条八十作詞の「花も嵐も踏み越えて・・」の歌謡曲「愛染かつらは、愛染堂の隣にそびえている樹齢1200年、高さ22mの桂(かつら)の巨木からとったものだそうだ。参詣後旅装をといて温泉に。かくて無事、卒寿記念の百観音巡りは全く成就することができた。
さて、ここ塩田平――長野県では盆地のことを平(たいら)と呼ぶ――は「信州の鎌倉」と称するほど小生在住の鎌倉と因縁の深い史跡が多く今度で3回目のなる。建治3年(1277)4月、極楽寺系の北条重時の五男義政は連署(れんしょ)―副総理と同じ要職―であった職を突如辞して出家し、自分の領地である塩田に隠遁、出家する。謀反を企てバレそうになったとか、文永の役(えき)(1274)の第一次蒙古襲来で執権時宗との意見の相違とか、幕府重鎮の対立の影響とか、身体上の都合とか、等々当時の文献によってもいまだに謎に包まれている。いろいろな学説があるようだがもちろん浅学な小生に判る訳がない。義政はこの地を第二の故郷、鎌倉と比定したのであろう。復帰の懇請も蹴って、別所温泉もあり、おだやかなこの地で遁世の生活を送り、41歳で骨を埋めた。
今回は家内同伴だったので主として名刹の三重塔を主とした。そこで先ず、安楽寺から訪ねてみた。薄暗い坂道を上った広場に、つつましやかに建つ北条義政創建と言われる三重塔(国宝)は、高さ18.65m、眉目秀麗、繊細優雅な日本唯一、屋根が八角の塔である。中国風でもあり、先ごろ参拝した日本第一の堂々とした男性的な京都東寺の五重塔(国宝)と比較し、なんと女性的な美しさかと思わず息をのむ。鎌倉時代も無骨一点張りではなかったこと、義政の教養が偲ばれる。
次に訪れたのは隣の青木村にある大法寺。つづら折りの峠を越した里の山肌にはり着くようにお寺はある。眼前に現れる高さ18.56mの三重の塔(国宝)は逓減率(ていげんりつ)(各階の屋根の大きさの比率)が大きいので安定感があり荘重である。訪れる人は立派さに立ち去り難く思わず見返るというので、「見返りの塔」と呼ばれている。修理の際発見された墨書によれば、正慶2年(1333)大坂天王寺大工により造営されたことが判明した。奇しくも鎌倉幕府は同年5月22日鎌倉東昌寺で一族郎党(もちろん塩田一族も含め)ことごとく自害し滅亡した悲劇の年であった。余計なことだが塔の三層の西北の柱には径80㎝ほどの巨大な「くまんバチの巣
がついているのを発見した。要注意。
つづいて名刹前山寺を訪れる。ここの参道は両側枝ぶりの良いケヤキや松の巨木が並木のだらだら坂を上っていく。やがて正面に高さ19.5mの堂々たる室町末期建立の三重塔(国重文)がそびえ建つ。よく見ると安定しているが、2層、3層の窓、勾欄(こうらん)(てすり)がない。未完成なのか?人は「完成の未完の塔」と判ったようなことをいうが凡庸な小生は立派で美しいと思うのみ。この寺には特に名物がある。「くるみおはぎ」のご接待だ。庫裡の広間で塩田平を一望にしながら、くるみの味噌だれのかかったおはぎと、紫蘇まきの梅をいただく。卒寿、人生の安らぎを覚えるひと時であった。
三か所の三重塔の拝観を終え、塩田平の総鎮守、生島足島(いくしまたるしま)神社に参詣した。信州では、諏訪神社と並ぶ古刹だそうだ。その一隅に古い歌舞伎舞台小屋が建つ。人力の回り舞台があり地下でそのからくりが判る。なお、上の広間には同社所蔵の武田信玄がわが子勝頼に忠誠のあかしとして書かせた諸将の起請文(国重文)(きしょうもん)のコピーが並んでいるが、なかには本誌主幹の牧氏の書かれた陸軍士官学校第59期生の遥拝所跡の碑を建てていただいた浅科村依田村長の先祖も数名入っていた。帰路上田へ出て眞田一族の上田城を訪れたがNHKと地元の宣伝で平日にもかかわらず大混雑、幻滅、かつての戦国堅城の面影は当分おあずけであった。(写真筆者撮影)
安楽寺
大法寺
前山寺
くるみおはぎ