追悼録(600)
教育者・岸辺福雄を偲ぶ。
明治・大正・昭和期の教育家であり口演童話家 の岸辺福雄が眠る多磨墓地の墓にお参りする(6月9日)。墓は多磨霊園の正面入り口の近く1区1種1側1番にあった。墓碑銘には「初代元三郎明治31年2月16日84歳」ほか11名の名が刻まれていた。「3代福雄昭和33年9月9日86歳、妻かよ昭和43年12月13日」とある。正面には御影石に刻まれた長方形の「岸邊福雄の墓」。その前に岸辺が好きであった地蔵さんが立つ。墓前には真新しい花が供えてあった。
岸辺福雄を知ったのは友人霜田昭治君が彼の創立した幼稚園に通っていたからである。 岸辺がなくなって57年、半世紀もたつ今でも岸辺の幼児教育論は役に立つ。兵庫県御影師範を卒業、兵庫県の小学校の教師時代に京都府久美浜町の岸辺かよと結婚、岸辺姓を名乗る。1902年(明治35)に上京して青山師範講師となるが、翌年、牛込区納戸町の自宅を園舎に幼稚園を開設した(神田神保町に移ったのは明治43年4月)。霜田君が通園したのは昭和8年である。時に岸辺先生60歳であった。
岸辺の幼児教育はユニークであった。毎朝、幼児を静座沈黙させて幼児格言を暗誦させる。
• 小さい子を可愛がる強い子
一、泣く子は弱い。泣かない子は強い。
一,嘘を言う子は大将になれない。玩具を壊したらごめんなさい。
• ぶつ子は鬼。桃太郎さんはぶたない。
これら格言は幼児に良い影響を与える。「日本口演童話史」内山憲尚編・文化書房博文社)によると、馬車で子供たちを郊外へ連れ出して保育したという。草原で相撲を取らせる。相撲は子供を快活にさせ、ぐずぐずしなくなる。体も丈夫になる。草花を摘みおとぎ話をした。おとぎ話は日本昔話が選ばれた。東洋幼稚園の園庭にはお地蔵さまがあった。ブリキ製のカバンをかけていた。これを「カバン地蔵」と言った。その年に亡くなった園児や生徒の写真を入れるのである。毎年秋に地蔵祭りをやって亡くなった人の遺族を読んで供養し、併設した東洋家政女学校では学芸会を開いた。霜田君の話によると、地蔵さんや地蔵祭のことは全く覚えがないそうで、謡でよく正座させられた記憶はあるが朝のお勤めも、馬車に乗った記憶もないという。馬で郊外へ行った話は創立期の頃のことかもしれない。 神田の東洋幼稚園と東洋家政女学校は第二次大戦時の強制疎開によって消失したが、現在も渋谷区上原には岸辺幼稚園があり、福雄の事業が受け継がれている。
岸辺福雄著「親のため子のため」(解説・川勝泰介・久山社)には子育ての極意が記されている。子供を育てるには「可愛くば五つ教えて三つ褒め、二つ叱ってよき人に施よ」と言う。このさじ加減が現代の親は苦手のようである。「子供は忘れるものなり」だから叱らずに腹を立てずにまた教えればよいというわけである。山本五十六(海軍大将)にも「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、褒めてやらねば人は動かじ」と言う言葉がある。
玩具は子供の教科書である。娯楽の道具でなく知識をまし、趣味を広める大切な道具であると喝破する。子供のぜいたく品でなく日用品であるともいう。岸辺は母親に対してはかなり厳しく、今の母親たちの行儀なり言葉なりが子供の模範になることが出来ないと批判している。「母親は子供にとって最大の教育者だ」と言ったのはスイスの教育者ヨハン・ハインリヒ・ベスタロッチである。岸辺が女学校を開設した理由はここにある。岸辺福雄の業績を垣間見て今更のように幼児教育大切さを知る。
なお岸辺、久留島武彦とともに口演童話の三羽烏と言われた岩谷小波(昭和8年9月5日死去・享年64歳)も多磨霊園に墓がある。いずれ訪れてみたい。
(柳 路夫)