銀座一丁目新聞

花ある風景(598)

並木 徹

神田界隈あれこれ

毎日新聞東京本社が有楽町から千代田区一ツ橋に移ってきて今年で50年になる。「パレスサイドビル」に来たのは昭和41年9月23日であった。ここを23年間、職場とした。今は時折OBとして訪れる。地下鉄東西線の駅名は「竹橋」である。パレスサイドビル一帯の地名は竹平町である。当時の毎日新聞の社長が一ツ橋、神田錦町、大手町一丁目、竹橋、日本武道館への連絡口など地域の発展と住民、通勤者の便宜などを考慮して決められた。パレスサイドビルと平行して神田川が流れる。東から西へ神田橋、一ツ橋、雉子橋、俎橋(まないたばし)と並ぶ。この水路はいざという場合に避難水路となり緊急物資を運ぶ命道となる。東京は神田生まれの友人は雉子橋周辺が遊び場所であった。さる日、その友人に神田神保3丁目、教育会館前の「共同ビル」に案内された。ここに昔彼の家があった。父親は砂糖を扱っていた。その近くにある街路樹の一本が悪さをして親に縛られた鈴懸の木である(プラタナス)。今なおその木は葉を青々と茂らしていた。昭和の初めごろの話である。

「五月晴れ我縛られしプラタナス」悠々

共同ビルの裏側に「稲荷神社」がある。入り口に狐の像が二基。5メートル四方の境内にあるのぼりの一つに彼の兄の名があった。都会では稲荷様は商売繁盛の神様である。今川小路一丁目(現神田神保町3丁目)の角にうなぎ店「今荘」がある。創業は明治30年、今の建物は昭和8年のもの。すぐ横に集英社の真新しいビルが建つ。昔の地図(大正7年ごろ)を見ると「早川湯」になっている。友人は子供の頃この「早川湯」によく入ったそうだ。「今荘」の女将は友人のお母さんも兄も顔見知りで慶弔も欠かさないという。かば焼きは絶品、昼前と言うのにかなりの賑わいであった。

この店で頂いた月刊文化情報誌「本の街」6月号に「大正大地震 その時神田は¡」の記事があった。まことにタイムリー。それによると、3日以上にわたって余震が1700回を超えた。地盤が弱いといわれた神保町,猿楽町、今川小路、西小川町一帯は家屋が倒壊、九段から燃え上がった火の手が神保町、駿河台まで押し寄せた。神田地区でも10数か所から起きた火事で神田区内を焼きつくし、3万910戸あった家屋の90%に当たる2万7681戸が被災、死者1055人が出た。大火が静まった3日には真っ先に商売を始めたのは食べ物屋であった。また罹災証明書を利用して旅費もかけずに東京と大阪を何度も往復し、衣類を仕入れ焼け跡で売って5階建てのビルを建てる資金を作った人もいたとある。

私の想い出は神田神保町にある岩波ホールの総支配人であった高野悦子さん(故人)と知り合ったこと。高野さんにとって岩波茂雄の二男雄二郎は義兄に当たる。高野さんの初めての本「キネマ人間紀行」(毎日新聞刊)を出すきっかけとなったのもなつかしい。岩波ホールは関東大震災前、東京デパートがあった。一軒おいて岩波書店があった。岩波茂雄がここに店を出したのは大正2年8月。夏目漱石が朝日新聞に連載した(大正3年4月から8月まで)「心 先生の遺書」を初めて出版(自費)した。その後「硝子の中」「道草」と漱石の作品を出して漱石全集出版元となる素因を作った。神田神保町には口演童話で有名な岸辺福雄さんが創立した『東洋幼稚園』(明治36年創立)もあった(戦時中空襲で焼失)。友人はこのすごい幼稚園に通っていた。岸辺さんは大正10年北原白秋らと雑誌「芸術自由教育」を創刊するなど児童教育では著名な方である(昭和33年9月、死去。享年85歳)。お墓が多磨霊園にあると聞いたので近くお参りをしようと思っている。

昼食後は靖国通りにある店で友人とコーヒーをいただく。昔から私は癌に効くと信じて飲んでいる。日に5,6杯は飲む。前掲の「本の街」には「熱さ口当たりの良さ第一級なり。(…中略)身体各部を強化して皮膚を清めて、その下にありたる湿りを取り去り、身体中くまなくすぐれし香リ生む」(医師アヴィセンナ=980~1037=の説)とある。ともかくコーヒーは体に良い…神田は良い街である。 「風薫コーヒーの味甘きかな」悠々