銀座一丁目新聞

追悼録(598)

亡くなった同期生小林次雄君との思い出

同期生が次々にこの世を去ってゆく。無常と言うほかない。予科本科同じ中隊であったものはともかく、3000名を超える同期生をすべて知っているわけではない。戦後親しくなった同期生が多い。亡くなった小林次雄君もそんな一人である(3月24日死去・享年90歳)。小林君との付き合いもここ10年である。平成16年10月1日、32名の同期生とともに「横森式階段」で名高い横森清文君の「いわき工場」(福島県いわき市)見学した後、帰りの列車の中で、偶然、小林君と席が隣わせとなった。予科時代、兵舎は隣同士、気が合ったのか上野駅に着くまで話し続けた。小林君と太田中学(茨城県)で一緒であった官房長官梶山静六君(平成12年6月6日死去)のエピソードなど昔話もでた。彼は梶山君の命日には必ず墓参を欠かさなかった。律儀な人であった。その後、同台経済懇話会。相武台会、湘南59会などでもしばしば顔をわせるようになった。今年の年賀状には「健筆を楽しみにしております」とあった。聞けば、昨年、がんが見つかったものの延命措置を取らなかったという。読書家の彼から『嗚呼原町陸軍飛行場』をいただいた。戦時中この飛行場で操縦訓練を指導した教官や訓練を受けた若者たちの闘いの記録である。この飛行場から多くの先輩たちが沖縄特攻で散華している。原町市陣ヶ崎公園墓地には平泉澄博士が碑文を刻した慰霊碑がある。その関係で俳人で俳句誌「はららご」主宰・八牧美喜子さんを紹介していただいた。御主人が陸士57期生の八牧通泰さん。八牧さんは航空士官学校卒業後この地で操縦訓練をされた。このほど同期生霜田昭治君が小林夫人へのお悔やみの手紙にヘンリー・スコット・ホーランド(イギリスの神学者・1847-1918)の詩を添えたところ貞子夫人から丁重な返事をいただいたと聞いた。この詩は確かに最愛の人を失くした家族にとって心が癒される。その一節を紹介する。

『死は 特別なことでは ないのです。
私は ただ隅の部屋にそっと移っただけ。
私は私のまま、そしてあなたもあなたのまま。
私たちがかってお互いのことを感じていた そのままの関係です』

( Death is nothing at all.
I have only slipped away into the next room.
I am I, and you are you.
Whatever we were to each other that we still are)

小林次雄君のご冥福を心からお祈りする。

(柳 路夫)