銀座一丁目新聞

追悼録(597)

本間雅晴中将の遺墨「竜虎親睦」と軍歌

軽井沢に住む友人別所末一君の家で拝見した本間雅晴中将の書が忘れられない(4月21日)。遺墨は「竜虎親睦」とあった。本来なら「竜虎相撃」と書くべきであろう。それを「親睦」としたところに本間中将の人柄がよく出ている。陸大(27期・陸士19期)を3番・恩賜で卒業した秀才。英国駐在武官を長く務められた(昭和5年6月3日から昭和7年5月27日まで)。暇があれば原書で文学作品を読まれ、文人的将軍として知られている。昭和3年6月、教育総監部が募集した軍歌に当時中佐であった本間さんの軍歌「朝日に匂う」(作曲・戸山軍楽隊)が入選(歌詞は10番まである)している。この時、本間中佐は秩父宮様の御付武官であった。秩父宮様が演習中の御付武官の随行を許されなかったのでその暇つぶしに応募したものであった。

「朝日に匂う桜花 春や霞める大八州 紅葉、色映え菊香る 秋空高く富士の山 昔ながらの御柱と 立ててぞ仰ぐ神の国」(1番)

作家・児島襄は3番に注目する。「平和、文化など、およそ軍歌に異例の単語であり、中将の視野の広いインテリぶりをうかがわせている」と評する。

「君の恵み深ければ 内に平和の栄えあり 国の守り堅ければ 外、侮りを受けずして
文化の流れ汲み分けて 進む一路は極みなし」

本間中将は隊付きをした「歩兵16連隊歌」、大衆に広く親しまれた「英霊を弔う―靖国神社の歌」、台湾・比島軍司令官であった時にも「台湾派遣軍の歌」(作曲山田栄一)、「比島派遣軍の歌」(作曲信時潔)をそれぞれ作詩されたことは知られている。このほかにも作詞した軍歌があるのを発見した。本間中将が台湾に赴任される前は初代の第27師団長(前職は参本第2部長・昭和13年7月15日から昭和15年12月1日まで)であった。27師団は支那駐屯混成旅団を改編した部隊。昭和13年秋の武漢攻略戦に参加している。実は「第27師団の歌」(歌詞は4番まで)がある。不思議なことにこの作詩・作曲者が不詳となっている。

1番「北支の天地 京津の 山河に刻む 四十年 駐屯軍の 名は薫る 勇士幾千 紅の 血に彩りし 伝統と 矜持を受けて生まれたる わが兵団 わが兵団 わが兵団は 天下の精鋭」
2番「武漢の戦 酣に 大嶺山の 朝霞 元山光の 夜の雨  山獄地帯を 突破して 疾風のごとく 若漢に 江南の敵を 分断す わが兵団 わが兵団 わが兵団は 天下の精鋭」
3番「鎧袖一度 触るるとき 敵陣たちまち雪崩れたり 懸軍長駆 二百余里 奥漢線を 遮断して 陸水河畔 秋風に みよ翻る 日章旗 わが兵団 わが兵団 わが兵団は 天下の精鋭」
4番「今発祥の 地に立ちて 渤海の波 岸を打つ 華北警備に 血と鉄の 威力を馳せて 新しき 秩序を築き 極東の 黎明の鐘 打たんかな わが兵団 わが兵団 わが兵団は 天下の精鋭」

この歌詞は「台湾派遣軍の歌」「比島派遣軍の歌」と比べてみても言葉の使い方、対句、歌詞の流れが酷似している。明らかに師団長本間中将の作とみていいであろう。軍歌は将兵の士気を高める。「歩兵16連隊の歌」をはじめとして台湾、比島と続いて軍歌を作詞した詩人・本間さんが初代師団長として「軍歌」を考えないはずがないと思うのだが…。

別所君の義兄高杉善治中佐(陸士37期)が本間中将の副官をしていたのは本間中将が第27師団長と台湾軍司令官(昭和15年12月2日から昭和16年11月5日まで)の時である。これが縁で本間中将の書が高杉中佐ㇸ贈られた。「竜虎親睦」。文人将軍らしい表現である。書体にも品格がある。円熟を感じる。見ていて飽きない。若い時の本間さんの墨書について書家・町春草は次のように評している。「大変達筆です。自分の思うままにのびのびと書いています。神経質な感じがなく、ものに拘らない人らしい。人間的優しもある、どこかさびしい字ですね。意志は強い人だったと思います」(角田房子著「いっさい夢にござ候」・中公文庫)。

本間雅晴中将は比島の「バターン半島の死の行進」で戦争責任を問われ、昭和21年4月3日処刑された。時に59歳であった。「部下の行為については喜んで責任を分かつ。戦場で死んだ幾千の日本軍将兵の仲間入りをしたい」の言葉を残す。 辞世「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」。

(柳 路夫)