銀座一丁目新聞

茶説

地震、げにこの恐ろしきもの

 牧念人 悠々

地震は予知できないものか、予知できれば災害の備えができるのだが・・・余震が頻発する熊本地方の地震のニュースを見てつくづく思う。新聞記事は事実を克明に追う。「午前1時25分ごろ(4月16日)熊本市中央区の繁華街にあるホテルの3階自室で、ベットに寝ころびながらパソコンで翌日の取材の下調べをしていた時に大きな揺れに襲われた。震度6強の本震。建物がゆさゆさと揺れ、棚に置かれていたテレビは落下、椅子も倒れ荷物が床に散乱、停電した・・・」(4月17日スポニチ・岩田浩史記者)。関東大震災のときはどうであったのか。「ぐらっと来た時、会計の山田は商品切手を束ねてコヨリを結ぼうとしていた。交換日は1日と17日だったので、前日の集金の勘定を終えたところであった。店内に十人前後の人が、異様な叫びをあげて、我がちに飛び出した・・・」(臼井吉見著「安曇野・第三巻」)大正12年9月1日震災当日の新宿「中村屋」の模様である。未明と昼間の違いがある。被害が桁外れであった。「熊本地震」は死者・行方不明50人、関連死11人、負傷者1310人、住宅損壊1万200棟、避難者8万余人。「関東大震災」は火事による死者が多く出た。死者9万1802人、行方不明4万2257人、倒壊・焼失家屋13万5千戸。

▼「このような規模の地震が広域的に続発するのは記憶にない」は気象庁の専門家の言葉である。まさに九州中央部が巨人の体の上に置かれたようである。犠牲者数は前日までを大きく上回り、余震と雨により土砂災害の恐怖が疲れ果てた住民に追い打ちをかける(4月17日毎日新聞「余録」)。

▼「9月4日(大正12年)。そうそう家を出て青山権田原を過ぎ、西大久保に母上を訪ふ。近港平安無事常日のごとし。下谷鷲津の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すると聞き、徒歩して上野公園に赴き,処処尋ね歩みしが見当たらず、空しく大久保に戻りし時は夜も9時過ぎなり。疲労して一泊す」(永井荷風著「断腸亭日乗」岩波文庫)

9月2日に「戒厳令」がひかれ軍が治安の維持に当たる。3日に非常徴発令(旧憲法第8条による緊急勅令による)が発布され被災者救済のために必要な食糧・建築資材。衛生材料・運搬用具または労務の徴発をおこなった。

今回、空き巣の被害が起きているが言語道断である。警察は被災者の救援活動に手いっぱいだ。自分の身を守るのに精いっぱいの地域住民に代わってボランテアによる防犯パトロールが行われる始末。関東大震災の際も窃盗事件などが起きている。救護品の窃盗、詐欺などで9月から10月ごろまでに42件が摘発されている。

防災の専門学者・物理学者・寺田寅彦はその著「柿の種」に次のような話を書いている。「1906年(明治39年)のサンフランシスコ地震の時に生じた断層線の長さは450キロに達した。1920年(大正9年)の中国甘粛省地震には死者10万人を生じた。考えてみると、日本のような国では、少しずつ、なしくずしに小仕掛けの地震を連発しているが、現在までのところで安全と思われている他の国では、存外3千年に一度か5千年に一度か、想像も出来ないような大地震が一度に襲って来て、一国が全滅するようなことが起こりはしないか。これを過去の実例に徴するためには、人類の歴史があまりにも短い。その3千年目か5千年目は明日に来るかもしれない。その時には、その国の人々は、地震国日本をうらやむかもしれない』(大正12年5月「渋柿」)

寺田寅彦がこのように書いて93年後「熊本地震」が起きた。4月14日の震度7の地震が本地震かと思っていたら16日未明に起きたマグニチュード7.3、震度5の地震の方が本地震であった。14日の地震は前触れであったという。震度1以上の地震も記録的に多く、マグニチュード3.5以上の地震も200回を超えた。これは過去最多のペースになっているという。これから何度、実例を繰り返せば人類に役立つのかと言うのだろうか、神様に聞きたいものである。