安全地帯(499)
相模 太郎
サイパン島玉砕戦の一枚の写真に感あり
友人の上原尚作君から月一度、ハガキで写真付きの「偶感」がくる。4月中旬に届いたハガキの写真は「破壊されて日本軍の戦車の傍らに戦死した日本兵の遺体」であった。戦争の悲惨・むごさをむき出しにした写真であった。ハガキによると、亡妻の妹が「6人兄妹の上がすべてなくなり私はとうとう最後の一人になりました」と言う便りを読んで戦争中「最後の一兵まで戦う」と言う悲壮な言葉を思い出しました。写真はサイパン島で米軍の砲撃で撃破された戦車の傍らに、転がっている日本軍戦車兵遺体の写真(米軍撮影)です。こんな写真を見る度に、現在のわが身の幸福を反芻していますとあった。そこでサイパン戦で玉砕した戦車部隊を調べてみた。
サイパン島守備隊は31軍(軍司令官小畑英良中将・陸士23期・陸大31期恩賜・昭和19年8月11日グアムで戦死・大将)のもとに第43師団(師団長斉藤義次中将・陸士24期・陸大36期・昭和19年7月6日サイパン島で戦死)と独立混成47旅団(旅団長岡芳郎大佐・陸士25期・昭和19年7月18日サイパン島で戦死・少将)のほかに軍直轄部隊として戦車第9連隊のほか高射砲連隊、独立工兵連隊、船舶工兵連隊がいた。写真に写っていた日本軍戦車兵であれば戦車第9連隊の将兵である。
戦車第九連隊について下田四郎著「サイパン戦車戦」(光文社文庫)に詳しく記述されてある。同隊は昭和14年、満州国吉林省鉄嶺で満州第533部隊として創設され、当初は第1戦車師団に属していた戦車連隊である(このほかに第10、第11各戦車連隊もつくられた)。初代連隊長は重見伊三雄大佐(陸士27期・昭和18年8月1日就任・昭和19年3月1日戦車第3旅団長・昭和20年1月27日ルソン島で戦死・中将)。昭和16年12月1日付で五島正大佐(陸士30期)に代わる。同期生・上野貞芳君の父・上野貞臣少将も同じ陸士30期。沖縄で第62師団参謀長として戦死している。なお、機甲兵種が誕生したのは昭和16年4月。これまでの歩兵の戦車兵と騎兵が一緒になった。大東亜戦争開始前には戦車連隊15個のうち7個連隊が南方侵攻作戦に使用された。なお、戦車連隊の装備は97式中戦車。4人乗り、14トン、速力38キロ,短砲身の57ミリ戦車砲一門、7・7ミリ機銃2挺搭載、最厚装甲5ミリであった。
ある時、高尾山の恒例の花見の会で同期生(陸士59期)の戦車兵・荒井正之助君(同期の機甲兵種は51名)がたった一人で歌った「戦車兵の歌」(作詞・53期岩田義泰)を思い出す。
「聖戦万里 海を越え
朔風すさぶ大陸に
我が精鋭の征くところ
旭旗、燦たる皇軍の
精華、われは戦車兵」
昭和19年2月。戦局の悪化により第九連隊はサイパンへと移動する。到着したのは昭和19年4月。到着直後から、隊員たちには珊瑚質の固い岩盤を人力によって削りだし、対戦車壕を作る作業に明け暮れる。米軍上陸直前には連隊本部と第3中隊が島の中央部のチャチャ地区に、第4中隊がトトラム地区、第5中隊は島中央からやや北部のドンニイ地区にそれぞれ配置される。昭和19年6月15日朝、米軍が上陸戦を開始。これを迎え撃つ戦車9連隊各中隊の奮戦が始まる。サイパン島南西チャラカノア海岸の米軍上陸部隊に対して最初の反撃を行ったのは、吉村成夫中隊長(大尉)指揮する第4中隊であった。最初の反撃は95式軽戦車と思われる車両によるもので、海岸の水際に放置されていたらしいのだが、外観的には壊れていたため米軍は無視し、上陸作業を行っていたが、午前10時ごろ突如この戦車が海兵隊予備連隊幕僚の乗車や海兵隊員に対し、砲撃を開始したのだが、すぐさまバズーカで撃破される。第4中隊は午後より歩兵部隊とともに反撃を開始。午後1時、第4中隊の3両の戦車が米海兵隊第6連隊に対し突進。あいにく沼地で進撃の障害となったため、2両が戦線を突破寸前にバズーカで撃破されてしまう。残る1両は進撃を続け、海兵隊第6連隊指揮所の60メートル手前で撃破された。第4中隊長・吉村中隊長は最後に中隊隊長車より飛び降り、軍刀を抜き、切り込む姿が同中隊第2小隊(小隊長・岡崎邦夫少尉)の後続の歩兵により目撃されている。第4中隊のこの日の反撃は翌16日朝に帰還した3両だけであった。6月17日 総反撃初日の反撃失敗を受け、米軍が装備・兵員の揚陸を完了する前に集結地に総反撃をかけることを決断した齋藤師団長は、同日夕方5時に攻撃を発令。参加部隊は歩兵百三十六連隊・同四十連隊・十八連隊、戦車第九連隊、独立山砲第三連隊、海軍横須賀第一特別陸戦隊などであった。戦車第九連隊としては残る第三、第五中隊を投入することになる。五島連隊長は戦車隊の単独突入を主張したのだが、戦車の援護を求めた歩兵の要求が通り、戦車の上に歩兵を乗せて突撃するということになる。17日午前2時30分島の南部の南輿神社に集結、二列縦隊を組んだ戦車群は4・5両に集団をつくり、1両に4、5名の歩兵が乗車し2派に分かれて攻撃を開始。午前3時45分最初の戦車群が敵陣に突入。多くの車長がハッチを開け、そこから指揮する。何台かは車外の徒歩の搭乗員に引率されていた歩兵は戦車エンジン部に乗ったり、九七式中戦車(チハ砲塔)のアンテナに掴まったりしていた。何台かは機銃や擲弾筒を車上に据えていた。このような状態で突撃を敢行し、米軍の重機関銃の掃射に合い、数多くの車長や歩兵が戦死した。第4中隊は、沼地を突破し目標であったオレアイ無線局付近まで進出したが、攻撃を受け全滅した。この無線局付近で、第3中隊長車(新砲塔チハ車)が撃破されている写真がある。数時間に亙る乱戦の結果、五島連隊長と第3中隊長西舘中尉は戦死した。最後の1両も艦砲射撃で木っ端微塵に破壊された。午前7時ころには戦闘はほぼ終了した。サイパン島の陸軍部隊は総計3万1442名、輸送中の海没2千240名を含めて戦死2万8518名、武運拙く敵手に落ちた者921名、終戦後復員したもの1千400名、米軍に収容された市民1万名、戦没市民1万名。サイパン島の玉砕によって東条内閣が倒れ、ここからB29の本土空襲を可能にし日本敗北の原因となった。
戦いすんで集いで歌う「戦車兵の歌」(五番)は悲しく響く。
「五条の勅諭(おしえ)かしこみて
人車の契り、いや固く
大和魂の雄健に
軍勝利の基ひらく
忠勇無双、皇軍の
精華、われらは戦車兵」
なお靖国神社遊就館に第9戦車連隊の九七式中戦車が展示されてある。当時戦車第九連隊に所属し生き残った下田四郎氏が戦後二十五年経って訪れたサイパン島で打ち捨てられた九七式中戦車を見て、私財を投じての奔走で昭和51年8月、日本に戻ってきたものである。