銀座一丁目新聞

追悼録(594)

久富勝次さんを偲ぶ

毎日新聞で一緒に仕事をした久富勝次さんが亡くなった(4月7日・享年72歳)秘書室長・スポニチ監査役を歴任したので縁が深い。定年後も折に触れて連絡があった。昨年、手紙と父・達夫さんの資料をいただいた。また8月1日(昨年)達夫さんが関連するNHKプレミアムで「玉音放送を作った男たち」を見た。久富勝次さんを偲びながらいただいた資料を参考にして書く。

昭和20年8月15日正午、昭和天皇はラジオの前で読み上げられた「終戦の詔勅」により大きな混乱もなく敗戦処理がすすんだ。「玉音放送」のアイデアを出したのは情報局次長の久富達夫さんであった。久富さんは毎日新聞の前身・東京日々新聞の名政治部長と言われた。当時下村情報局総裁の秘書官をしていた川本信正さん(元読売新聞記者)が「久富さんと終戦工作」の一文を残している。それによれば、鈴木貫太郎内閣の組閣に当たり下村情報局総裁(国務大臣)を選んだのは首相自身だという。下村さんは当時NHKの会長で全局長を集め「私は鈴木内閣には終戦をやるために入る。私はたとえ殺されてもよい。この内閣で終戦をさせる」と別れの挨拶をする。玉音放送の話が出たのは昭和20年8月1日である。久富次長が切り出した。「終戦するには一つの形というものがある。それには陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。つまり陛下が国民にじかに終戦を宣言される。それが日本と言う国の建前から言っても一番いい方法ではないか」

勝次さんもアイデアマンであり活動的であった。斬新な事業を企画し、部数の拡張に精を出した。交際範囲も広く、気性もすっきりした紳士であった。 下村総裁は久富提案に即座に賛成し「直接陛下にお逢いしてお願いしてみよう」と言うことになった。直接、下村総裁が陛下とお会いになったのは8月8日午後2時頃であった。会見は30分の予定が2時間に及んだ。下村総裁は車の中で川本秘書官に「陛下は承知してくださった。私が陛下にマイクの前におたち下さいと申し上げると陛下は必要があればいつでもマイクの前に立つとおしゃったんだよ」ということであった。それから71年、桜の花が散るように勝次さんはこの世を去る。晩唐の詩人干武陵の「酒を勧む」を思い出す。

「勧君金屈巵(このさかずきをうけてくれ)
満酌不須辞(どうぞなみなみとつがしておくれ)
花発多風雨(はなにあらしのたとえもあるぞ)
人生足別離(「さよなら」だけがじんせいだ)(訳・井伏鱒二)

私より19歳も若い久富勝次さんが死ぬのは早すぎる。それでも「人生はさよならだけだ」。心からご冥福をお祈りする。

(柳 路夫)