銀座一丁目新聞

安全地帯(497)

湘南 次郎

遠くなった昭和ひとけた

先日、古書店で吉村昭著「昭和歳時記」(文春文庫)を買ってきて読み、幼いころ(もちろん昭和ヒトケタ)の原っぱの思い出がよみがえって来た。卒寿を迎え、まるまる昭和と平成を生きて来た残党ということになる。老生が生まれたのは大正15年(昭和元年)東京府豊玉郡高井戸町の西端、省線電車(現在JR)西荻窪駅の商店街の真っただ中であった。昭和ひとけた、商店街とはいえまだ道路をへだて前に1,000㎡ばかりの空き地があった。上を大きな高圧電線が通っていて、当時そこだけは下に家が建てられなかった。いたずら坊主の遊び場であり、人寄せの露天商などが頻繁に店を出す絶好の場所だった。幸いにもそこの地主が伯父であり、老生は棒きれでチャンバラや兵隊ゴッコ、メンコ、べーごまと、ガキ大将になって原っぱに君臨した。

朝は豆腐屋さんのラッパ、アサリ売りの「アサリー・シジミよー」、で夜が明ける。オミオツケ(味噌汁)の具にするものだ。「ナットー、ナット」わらにくるんだ納豆売りも来る。昼は、きまった時間に近所の子どもたちがおこずかいの1銭銅貨を何枚か握って集まって来る。自転車の後ろに舞台を載せた「紙芝居」のおじさんに一銭だったか払うとあめをくれ、人気の黄金バット、丹下左膳などを声高らかに説明する。タダ見の奴は遠くでそっと見ている。「ドンドン焼」つまりお好み焼きのことだが、そんな上品な言葉はない。リヤカーに小さな小屋を載せ、かまど、鉄板、いろいろ具の入ったガラス瓶を並べ、ソースなど、まだケチャップやマヨネーズは高嶺の花、使うはずもない。屋台のひさしに小さい太鼓をぶら下げ原っぱに留まると、ドンドンとたたいて子どもを集める。おカネの多寡でネギ、紅ショウガ、キャベツが「並」で「上」はひき肉、ほしえび、きりイカ、アゲタマ、魚粉、タマゴなどが入る。焼きあがると、はけでソースを塗り、切った古新聞にのせてくれるが、ソースと新聞のインキのおいがマッチしてたまらなく懐かしい。当時マヨネーズやケチャップは高級品で使うわけがない。「飴細工屋」は客寄せに太鼓をたたき、自転車の荷台にちいさなかまどで湯煎をした鍋に真っ白な半練りのあめを入れて来る。少しずつ取って器用に和バサミをいれ、のばしたり曲げたりしてニワトリやうさぎを作り食紅(紅だけではない)など筆で色をつける。子供たちの注文に応じ、目の前で細工するので人気がある。さめて固くなった見本を荷台のやぐらに巻いたわら束に刺して飾っている。

大人向きには「ラウ屋」(死語になった)。キセルの掃除屋さんのこと。リヤカーに、ボイラー、かまどなど一式乗せ、蒸気でピーと笛を吹いて客に知らせる。普通、庶民のキセルは総金属(ナタマメ)ではなく、きざみタバコを少しずつ丸めてつめる金具と吸い口の金具の間を竹筒でつないであり、それにボイラーの蒸気を通して洗い、紙のこよりを通して掃除する。引き出しにいっぱい竹筒が入っていて手ごろなのと取り替えるときもある。「山伏の薬屋」は、山伏の衣裳を着て、ゴザを敷きいろいろな野草を広げ、野草の効能を説明しながらそれをムシャムシャ食べて薬になると説明する。見物人が奇異な目で見ていると次第に○○山の漢方薬に客を誘導していく。サクラという客のふりをする仲間がいて感心し褒めながら買う。素人(しろうと)の見物客はつられて買うことになる。「バナナのたたき売り」、「包丁売り」「古着」「こよみ売り」など、ほれぼれ?するような歯切れのいい口上を述べたてる。だいたいサクラが数名いて、いつも見ている子どもたちにはサクラがよくわかる。ある暮れに珍事があった。松竹梅の盆栽を売る店が出た。きれいに植えてあって正月用にもってこい。10鉢ぐらいあったのがすぐ売れた。売り切ると脱兎のごとくいなくなった。すると青くなって買った客がとんできたがあとのまつり。植木は全部小枝をさしたものだったのだ。さすがサクラとの連携プレーはみごとだった。

「サルまわし」「餅の曲つき」「支那人の曲芸」、小屋掛けでは、大きな樽のなかをぐるぐる回る「オートバイの曲乗り」、首が伸びる「ろくろっ首」の見世物、小規模な「サーカス」など、テレビのない時代、原っぱは社交場であり、遊び場だった。もちろん夏休み早朝はラジオ体操、商店街の世話役がカードにハンコを押してくれる。夕涼みには縁台を持って来て街灯の下で将棋がはじまる。暮れは正月用のしめ縄、松飾を売る店が並ぶ。冬の夜は刺し子のオーバーを来た鳶職の夜回りが小屋がけをして火の用心に拍子木を乾いた夜空にカチ、カチ、チとたたいて巡回する。支那そば屋、焼き鳥屋、おでん屋など常連客がいて、遅くなるまで繁盛していた。あふれるコップの焼酎の受け皿を先になめてる客、屋台のあかりに使うカーバイトのにおい、忘れられぬ思い出だ。
しかし好事(こおず)魔多し。昭和10年ごろを境に高圧線が撤去され、愛する原っぱには商店がびっしり建ってしまった。町は繁盛したが、子どもたちは遊び場もなくなり、世の中が徐々に大戦争に近づいて行くのを知る由もなかった。