銀座一丁目新聞

安全地帯(496)

川井孝輔

東京大仏

産経新聞を見て驚いた(2月5日)。何と東京大仏なるものが、板橋の乗蓮寺に鎮座して在ると云うのだ。江戸っ子を自負していた積りの私が、全くの初耳だったので合点が行かない。早速に探訪に出かけることにした。都営三田線の終点、西高島平駅下車と書いてある。普段はもっぱらJRと千代田線を利用するので、勿論下車駅も初めての事だ。幸い駅でA-4版の案内図を貰えたので、目的の場所は凡その見当がついた。それでも念の為にと道順を確認したり・ブランコに興じる子供たちの喜々とした声に、嬉しくも耳を傾けたり・歳のせいで腰が重くなり、暫しの休憩をとったりで、徒歩18分の筈が倍近くを要して、ようやく目指す乗蓮寺に辿り着いた。

 乗蓮寺の開創は、室町時代の応永年間(1394~1428)とあり、浄土宗として了賢無的和尚が開山されたとあって、結構古いお寺らしい。それが昭和48年首都高速5号線建設の為、余儀なく現在地の板橋区・赤塚五丁目に移転したとある。昭和17年4月18日東京は初めての空襲を受けたが,20年3月10日には墨田・江東・台東区を中心とする地域に、B29爆撃機325機が来襲しての大空襲が有った。以来終戦時までに延べ100回を超える空襲があったと言う。其の悲惨な戦災や、関東大震災の様な天災が、二度と起きないようにとの願いを込めて、昭和52年4月10日に大仏が建立され、開眼の儀が乗蓮寺で取り行われた。爾来「東京大仏として、寺の代名詞にもなって来たと云うわけである。私事ながら、東京大空襲では目黒区も被害を免れなかったが、幸い実家は無事だった。尤も弟達は惨状を目にし,恐怖を体験した。当時我々は、座間或いは夫々の疎開地にいて、呑気な事だった。今にして考えても、忸怩たる思いが強い。

乗蓮寺は武蔵野の自然を残す高台に在る。周囲はすっかり住宅に囲まれて仕舞ったが、此処だけは緑の森に覆われ、静かな一画として残っていた。凡そ4~50の階段を登った処に山門が在り、山門に立つと正面に、珍しくも金色の立派な鴟尾を備えた本堂が、でんと構えている。そして右手に、東京大仏がゆったりと微笑んで居るのだった(写真参照)。

大仏は、座像で青銅製の鋳造としては、奈良東大寺・鎌倉高徳院の大仏に次ぐ大きさだと言う。坐高は8,2m、蓮台を合わせた地上高は12.5mで、予想を越える高さがある。およそ40年前に鋳造されて相当古い筈だが、折からの好天に映えて、輝くような新しさを感じる。写真でもわかるほどの、柔和な微笑みを湛えて、大変美しい。初めてのお詣りを敬虔に済ませて、無事目的を果たす事が出来た。

  境内の探訪を始める。先ず、新聞にも載っていた「がまんの鬼」を見る。なるほどユニークだ。「何でも耐えるとの注釈は、まじめに受けとめねばなるまい。「天保の大飢饉」の大きな供養塔が在る。享保・天明の両飢饉と共に江戸時代の三大飢饉として有名だ。1833~36年にかけて全国的な天候不順による凶作・疫病の流行により、多くの餓死・病死者が出た。当時の住職が、区域内の死者を弔う為に建てた供養塔だが、現在は区の文化財に登録された由。は蓮台を含む大仏の全体像。さして広くない境内だが、一画に洒落た池があり、緋鯉を交えた群れが、親子連れからの餌をむさぼっていた。子供は三才位だろうか、純粋無垢の表情で悦に浸って居る様子は、真に可愛いいものだ。ずらり並んだ七福神を、寺院で見るのが珍しく思える。壽老人と福禄壽の見分けが難しいが、左から壽老人・福禄壽・弁財天・毘沙門天・布袋・大黒天・恵比寿の順であろう。曽って谷中の七福神めぐりをした事が、想いだされる。

大きな布袋さまの石像と、立派な案内碑が在った。この寺の第二十四代住職が、昭和六十三年に寺の移転その他の事業を成し遂げ、寺の基礎を盤石にして、百歳の天寿を全うされたとある。師の温容が布袋さまを彷彿させるところから、顕彰して平成二年に建立されたとの案内である。まさに仁徳の形見であろう。著名な彫刻家北村西望の観音像が祀って在った。曽って、長崎で雄渾にして厳かな「平和祈念像」を拝んだが、関東でも熊谷駅前に熊谷次郎直實像が見られると云う。こちらは一芸に優れた人の、匠の技の結晶で名を残して居るのだ。は板橋信濃守忠康墓(付石灯篭)である。板橋氏は平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島の一族であり、其の末裔に当たる忠康は、天正年間には北条氏直に仕えていた。忠康の子が浄土寺の住職になった関係で、其処が一族の菩提寺になって居る由。処が事情は不詳だが、忠康だけがこの乗蓮寺を菩提寺にしていたと云う。寛政4年(1792) 忠康の200回忌が乗蓮寺で営まれた時、墓石が再建され隣に石灯篭が奉納されたと「乗蓮寺文書」に残されてある。その「乗蓮寺文書」は区の文化財に、そして石灯篭は区登録の「有形文化財」になったとのことであった。当然板橋区の名前の由来でもあろう。三途の川の奪衣婆と記した奇妙な石像が在る。我々も三途の川を渡る時に、お世話になるのだろうか。念の為カメラに収めたが、「がまんの鬼」と共に津藩藤堂家の旧蔵したものとあった。乗蓮寺と藤堂家との関係につては判らない。最後に、いたばしの史跡観光案内板赤塚散歩道をカメラに収めてみた。今まで、ご縁がなかった板橋区だが、予想以上に史跡の多いのには驚かされる。