銀座一丁目新聞

追悼録(591)

冬の蜂去り難かりし翁塚 高安春蘭

句集『天為』2月号を手に取る。主宰・有馬朗人さんの「十人十色」のコラムにあった高安春蘭さんの句「冬の蜂去り難かりし翁塚」に目がとまった。芭蕉忌を桃青忌・時雨忌・翁忌ともいう。芭蕉は元禄7年陰暦10月12日に大阪で病没、享年51歳であった。辞世の句は有名な「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」である。死ぬ前の9日午前2時ごろ介抱していた呑舟に墨をすらせて書かせたという。さらに芭蕉は弟子の支考を呼んでこの句を示し「これを仏の妄執と戒め給ヘる、ただちは今の身の上に覚え侍る也。この後はただ生前の俳諧を忘れむとのみおもふは」と、最後の最後まで俳諧に、枯れの美に執する自分の業を悔やんだそうである(暉峻康隆著「芭蕉の俳諧(下)」中公新書より)。遺体は遺言により大津の膳所の義仲寺に葬られた。生涯漂泊の旅を愛し「奥の細道」をはじめ名作の紀行文を残す。

高安さんの句に対する有馬さんの評は「この蜂も芭蕉を慕っていつまでも翁塚にとまっているようである。小さな虫でも人間と同じような気持を持っているように感じられる句である」である。 毎年10月12日には出生地の伊賀上野の俳聖殿や芭蕉記念館で芭蕉祭が、11月第二日曜日に大津市の義仲寺で時雨忌が催されるなど全国各地で記念俳句大会が開かれる。

「船笛の末広がりに翁の忌」庄司縫子

ふと、井上ひさしのお芝居「芭蕉通夜舟」を思い出した(2012年8月23日・新宿紀伊国屋サザンシアター)。 漂泊の詩人は元禄2年(1689年)3月22日「奥の細道」の旅に出る。時に46歳。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす…』旅中吟の初めは「行く春や鳥啼き魚の目は泪」である。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」に芭蕉は苦吟する。「しみこむ」か「しみいる」か…。ここは山形領の立石寺。慈覚大師が開基したところ。岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず崖をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し佳景寂寞として心すみ行くのみ覚ゆと「奥の細道」にある。“しみいる”とは「蝉の声と一つになって芭蕉の心は、岩を貫き地球の奥深く浸透してゆく」と東大教授小森陽一さんは解説する。「しみいる」、すごいものだと感心してつくづくと芭蕉を演じた三津五郎の顔を眺めたものであった。

井上ひさしは芭蕉を「人は一人で生き、一人で死んで行くよりほかに道はない」事を究めるために苦吟した詩人と考えたという。芭蕉には「この道や行く人なしに秋の暮れ」の句がある。「秋の暮れ南無阿弥陀仏我一人」(悠々)相通ずるかな…

(柳 路夫)