銀座一丁目新聞

追悼録(588)

ベルリン・オリンッピクのサッカー選手竹内悌三さん

「サッカーU23」の23人の日本選手たちは夢を紡いでくれる。頼もしい若者の誕生だ。誰が逆転を予想したのか。私などは韓国に1点入れられた時点でテレビを消して寝た。「U23アジア選手権決勝戦」。2-0から日本が逆転したのは後半22分から14分間で3点入れた。ドラマというほかない。しかも切り札と言われたFWの男がこれまでの4試合で結果を出していなかった。不運な男であった。そんな男を監督は最後まで信じて後半から投入して結果を出した。リオ五輪ではそれなりの成績を上げるにはもう少し個人、個人の技を磨かねばなるまい。大いに期待している。楽しみでもある。と「銀座一丁目新聞」のブログに書いた(2月1日)。スポーツと若い者の活躍を見ていると心が爽やかになる。

私自身は取材に行ったメキシコオリンッピクの際(昭和43年10月)、サッカー戦で日本チームが3位決定戦でメキシコに2対0で勝ち、銅メタルに輝いた時には興奮した。この時、釜本邦茂選手が得点王になった。時に釜本選手24歳。メキシコ大会には日本は215人が参加,金11個・銀7個・銅7個を獲得した。

このほど送られてきた「文 MONNEXT」(平成28年1月10日発行・公文教育研究会)に照明デザイナーの石井幹子さんが昨年、サッカーやフットサルをしている母子家庭の小学生から直筆の作文を募り、奨学金を送る「竹内悌三賞」を創設した話が出ていた。竹内悌三さんはベルリン・オリンッピク(1936年・昭和11年8月)の時、サッカー日本代表のキャプテンを務め、予選でスウェーデンと対戦、前半0-2でリードされていたのを後半3点を入れて逆転勝利した立役者であった。今回の「サッカーU23」の対韓国戦を髣髴とさせる。準決勝戦ではイタリアに8-0の大差で敗退した。時に竹内選手23歳であった。聖火リレ―が始まった五輪でもあった。女子200m平泳ぎで前畑秀子選手が優勝、河西アナウンサーが「前畑ガンバレ」を36回も絶叫しては話題となった。日本は選手154人が参加,金6個・銀4個・銅8個を獲得した。

竹内さんは中学校時代からサッカーを始め、東大在学中に第9回極東選手権競技大会(1930年)のサッカー日本代表にも選ばれている。大東亜戦争には応召され、終戦後はシベリア抑留となり、1946年4月、同地のアムール州第20収容所で死去した。享年37歳であった。なお2006年、日本サッカー殿堂に特別選考により選出された。悌三さんが亡くなった当時、竹内幹子さんは8歳であった。戦地から送ってくれた父のはがきは宝物であるという。スポーツの精神はこのような形でも後世へ受け継がれてゆくのはうれしい。

(柳 路夫)