銀座一丁目新聞

花ある風景(587)

並木徹

昔、毎日新聞に福居と言う名記者がいた

新聞社や出版社は新人を発掘、世に出せば記者冥利に尽きる。これはネットなどでは味わえないであろう。かってテレビ界で活躍した政治学者で政治評論家の藤原 弘達さんと言う人がいた(平成11年・1999年3月3日死去・享年77歳)。当時、TBSテレビの日曜朝の人気番組「日曜放談」に出演、遠慮会釈なく政治家、官僚、マスコミ切って捨て、視聴者の溜飲を下げさせた異色の人物であった。この人をはじめて世間に紹介したのは毎日新聞社会部記者であった福居浩一さんである。福居記者は少し変わった人で、戦後、北大の理学部化学科出身で毎日新聞に入社、学芸部、社会部で仕事した後、他社に転じて発展途上国のためにその国言葉で技術書を出版することを思い立つ。事務局長に収まった財団法人「国際技術振興協会」で20年にわたって現地語による技術書出版を成し遂げ、50万部に近い出版を成功させた。その功績や大なるものがあり、NHK「土曜レーポート」で放映されたこともある。知る人ぞ知る。その苦労話はその著書「タイ文字を創れ」(720頁の大書・化学同人)に詳しい。同書によるとそのいきさつはこうだ。

昭和27年1月13日、日本学術会議で開かれた「社会的緊張」のシンポジュームに、先輩の三木正さん(故人)から「行ってみないか」と言われ取材に行った。司会は日本人文科学会・尾高朝雄会長、メンバーは和歌森太郎、福武直、大内力と錚々たる学者らであった。藤原弘達さんは当時、明治大学助教授。演題は「戦後右翼ナショナリズムの萌芽情態―日本革命菊旗同志会の場合」。話が進むにつれ爆笑に次ぐ爆笑。発表が終わると割れんばかりの拍手が起きた。ユニークなデータと斬新な分析が受けたのだ。帰社して三木正記者に報告すると,「それじゃ学芸欄に書いてもらうか」ということになった。そこで福居さんが藤原助教授に会って原稿を依頼した。その年の1月30日の朝刊の学芸欄に「若き狂信者の群-戦後右翼の命運」が載った。当時の新聞は戦争直後の紙不足で朝刊が4ページ、夕刊が2ページであった。学芸欄は水,木の2日、しかも朝刊の左上に隅にある。貴重な欄であった。外部原稿は有名人に限られていた。藤原助教授の原稿は異例中の異例であった。当時の学芸部のデスクは古谷綱正さん(故人)であった。後に朝刊のコラム「予録」の筆者、TBSのニュースキャスターになった人である。三木正さんにしても後に週刊誌「サンデー毎日」の編集長として辣腕を振るい「有名大学へどの高校から入るか―出身高校別合格者一覧」の名企画を生み出している。

藤原弘達さんはその著書「世に出る」(藤原弘達著作刊行会発行)にその喜びを書いている。「当時毎日新聞の学芸欄に文章を発表させてもらうことは、若い学者にとっては大きな感激であった。(中略)学会の研究発表の模様をフォローした大新聞の学芸部記者(藤原さんの思い違い社会部である)に白羽の矢を立てられたことは、口では言えない喜びであった」。毎日新聞社側にも役者がそろっていたというべきかもしれない。人を世に出すのは決して簡単なことではない。