銀座一丁目新聞

追悼録(587)

元首相田中角栄さんブームを考える

元首相田中角栄さんがなくなって23年(平成5年12月16日死去・享年75歳)。その人気はいまだに衰えないどころか待望論さえある。週刊誌「サンデー毎日」(2月14日号)は松田喬和・毎日新聞特別顧問をインタービュアにして二階俊博・自民党総務会長に田中角栄さんを語らせている。「田中ブームは政治劣化への警鐘だ」としている。現在、田中元首相を直に知る人は政界でも6人しかいないという。二階総務会長は「下から上まで気を配り、人心を引きつけていく。他に類を見ないお人柄であった。何に対しても、常に真剣勝負であった」と語る。人物的には魅力のある人と私も思う。商才に至って抜群である。政治家にならず、企業人として過ごしておれば大成功したであろう。

田中角栄元首相の政治生命を絶ったのはロッキード事件であった(逮捕は昭和51年7月26日)。昭和58年 10月 、一審判決で懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受けたが控訴中に本人が死去したので控訴棄却になった。このロッキード事件は日本の保守政治には「最大の汚点」だが「金権にまみれた政治家は追放される」と言う「民主主義の機能」が発揮されたに過ぎない。当時、毎日新聞の「記者の目」(昭和51年7月28日)は「”もはや政治疑獄は摘発されない“”いくら捜査当局ががんばってもどうせ政界トップまでは伸びない”と、いつしか庶民の間に、やるせなく定着しかけていた二つの神話が、崩れ落ちる一瞬でもあった…」「神話」の崩壊とは、政治権力はもはやアンタッチャブルで亡くなったのと同時に市民の力でも社会を変え得るということであると論じている。戦後31年、『金権政治』に一つの結節点が来ていたといえる。戦後政治の総決算の意味もある。

田中が政界に足を踏み入れたのは昭和22年4月の戦後第2回目の総選挙に当選してからである。時に28歳。戦前から土建業者として生き抜いてきた田中は機転がきき商才にたけた男であった。選挙を企業家的に展開して勝ち続け後に「後援組織」を作る。田中は保守本流の路線「日米協調」「経済復興」「反共」の中で巧みに商売の種を見つけ蓄財していった。政策を実行する中に商才を発揮した。その最たるものが「日本列島改造論」であった。すばらしい着眼点であるのだが・・・

政治評論家高橋武彦さん(故人)はその著書「政治を見つめて」(大分県人社刊)の中でその政権が短命であったのは「公」より「私」を重んじたからであると指摘する。朝、目白の私宅で陳情客に会い、夕方になると田中事務所でかなりの時間を過ごす、首相として公務を果たす首相官邸で過ごす時間があまりにも少なすぎたという。この指摘は当たり前であるが重大である。政治家よろしく公務を全うすべしである。これほどの教訓はない。

(柳 路夫)