銀座一丁目新聞

追悼録(586)

友人向井義則さんが描く司馬遼太郎

古い資料を整理していたら毎日新聞大阪本社社会部で一緒に仕事をした向井義則さん(奈良市在住)の資料が出てきた。奈良支局長も務められた向井さんには昭和38年8月、東京社会部から大阪社会部に初めてデスクとして赴任したさい、人には言えぬほどお世話になった。

向井さんは大阪外国大学で司馬遼太郎と同期生で平成10年11月11日台湾の台北市で開かれた「司馬遼太郎と台湾紀行を語る会」に出席、講演までされている。その「語る会」への参加を呼び掛けた世話人の代表でもあった。当日の会には夫人の福田みどりさんら150人が集まったとある。同窓会台北支部の揚克智さんが「台湾紀行」の一節を引用して挨拶している。「3百年も独力で人々がくらしつづけてきたこの孤島を、人間の尊厳と言う立場から言えば既存のどの国も海を越えてこの島を領有しに来るべきでないと思った。当然のことだが。この島の主は、この島を生死の地としてきた無数の百姓たちなのである」

先に行われた総統選挙で祭英文主席が勝利した理由の一つがここにある。私はブログに書いた。『人は誰しも「独立と自由」を望む。台湾総統選挙で民主進歩党の際英文主席(59)与党国民党の朱立倫主席(54)に記録的な大差をつけて圧勝する。国民党があまりにも中国にすり寄りすぎた。国民は民主主義が損なわれると肌で感じたに違いない。14年春に起きた対中経済協定に反発した学生たちが立法院議場を占拠したのは、「民主主義と独立」の危機を感じたからである。今回の総統選挙はその帰結である。いずれにしても中国とは同族、いがみ合っていくわけにはいくまい。国際世論を味方にして国を運営していくほかあるまい』

司馬遼太郎は平成8年2月12日死去、享年72歳であった。司馬さんは台湾には3度訪れている。その間、李登輝総統ともいく度か対談されている。「台湾紀行」には台湾人すら知り得なかった微細な人情まで描かれている。残された向井さんの講演内容が面白い。司馬さんに人物の見分け方を聞かれる。「一流、二流をどうやって見分けるか」と言うのである。司馬さんは坂本竜馬と武市半平太を例に挙げた。武市は50年先を読んでいたけれど坂本は100年先を詠んだ。武市は邪魔になった家老を仲間に暗殺させた、坂本は一人も殺さなかったという。向井さんは坂本を「あぶち」だという。高知には「あぶち」の木がたくさんある。「あぶち」はつまらない何にもならない木である。堅いので下駄にもならないし、風呂場に放り込んでも燃えない。使い物にならない木だが一匹の毛虫もつかない。そこが取り柄だという。人間も同じでその愛嬌のために皆にかわいがられ、みんなを明るくする。司馬さんは坂本竜馬に「あぶち」の精神を見たのではないかと向井さんは言うのである。司馬遼太郎が亡くなって20年。今年も2月12日には「菜の花忌」が開かれる。

(柳 路夫)