銀座一丁目新聞

花ある風景(584)

並木 徹

友人とのメールの交換、また楽し

よく友人とメールの交換をする。大いに知的刺激を受ける。最近こんなことがあった。少し長くなるが我慢して読んでください。

「銀座展望台」(1月11日)に次のようなブログを書く。
『「新構造・神奈川展」(1月5日から10日まで。「川崎市「アートガーデン川崎」)を見る。同展の写真部門(27作品)に友人の霜田昭治君が出品しているので出かけた。題して「黄葉小景 光を浴びて」光を浴びたイロハ紅葉を捉えた写真である(下の写真)。私は万葉の世界を感じた。

万葉人今に在らしめばかく詠わん。

「もみじ葉の 光に映えて 人集う 御代の賑わい 留めおかまし」

彼の話では昨年秋に公開された皇居乾通りでのスナップで、局門付近で撮影したという。当時彼からメールをいただいた。「皇居内の『乾通り』が12月5日~9日一般公開された。8日午後、大手町に所用で出掛けたところ、偶々一般公開の日だと知り、参観しました。 今朝の新聞によると5日間で計20万3000人が訪れ、この日は最高の4万8000人だったそうです。来年は春の桜の季節に公開されるとのこと」
この時に写真も添付されていたが今回のような幻想的の作品ではなかった」


これに霜田君から次のようなメールが来た。
「ブログ拝見。万葉の世界を感じられたとのご感想を頂き、またとない励みに なりました。私は仏教系の中学時代に習った仏語の「一隅を照らす」が念頭にありました。
ネットで次の記事を見付けました。
 

『万葉集にも、紅葉を詠んだ和歌が80首以上あるそうな。
ところが、そのほとんどが、実は紅葉ではなくて、黄葉、つまり、葉が黄色く色づくさまを詠んだものだという。そもそも『もみじ』という言葉自体、揉んで色を出す、という意味の『もみず』から来ているらしいが、これも漢字では『黄葉ず』と書く。今の世の中、どう考えても葉が赤くなる紅葉の方が主役に思える。万葉人の色彩感覚は現代人とは違っていたのだろうか。よくよく調べてみると、どうも、事の起こりは中国の陰陽五行説にあるらしい。陰陽五行説というのは、中国で作られた占いというか、哲学というようなものなのだが、その中で、黄色は、特別な色となっている。たとえば、陰陽五行説では色を方角に当てはめたりするのだが、青は東、黒は北、白は西で赤は南、そして黄色は中央となっている。つまり、黄色はまさに中国の真ん中、皇帝がいる所、ということになる。単純に言うと、一番高貴で偉い色とでも言おうか。黄土の大地から生まれた中国文明らしい格付けだ。奈良時代以前の日本は、中国文化の影響を色濃く受けていたから、木々が黄色く色づくことに、特別な意味を見い出していたのだろう。しかし、平安時代になって、日本独自の文化が芽生えてくると、なんだ、黄色より赤の方がきれいじゃん、てなことになって、紅葉の方がメインになってきた。平安時代に編纂された古今和歌集なんかでは、黄葉よりも紅葉の方が、圧倒的に数多く詠まれているのだ。ちなみに、黄葉する木、イチョウの語源は、葉っぱの形が水鳥の足に似ていることから、中国で『鴨脚(ヤーチャオ)』と呼んでいたものが転化したもの、紅葉する木、カエデの方は、同じように葉っぱの形がカエルの手に似ていることから、『蛙手(かえるで)』と呼んでいたものが転化したものらしい。こんな豆知識を片手に秋空のもと、紅葉狩りなんていかが?』

このメールに私は次のように返事をメール送った。
『「古事記」には「黄色」が欠落している。「色の名の古事記に見えたるは、黒、青(緑をも含めり)、赤,斑(これは間違い)、白など也。黄色の事は記載せし事なし(飯田水夫訳「日本上古史評論」)。このことをはじめに指摘したのは英国人チェバレンで明治16年に出した英訳「古事記」である。 古事記で使っているのは正確には「青し」「赤し」「白し」「黒し」と言う形容詞。万葉集も同じである。この4つの色が日本人の色彩感覚の根幹をなしているという。上村六郎さんは古代の日本には独立した黄色の概念はなく黄色をおおむね「赤」のなかにいれていたらしいと指摘する。万葉集に「黄」と言う文字が使われていないというのではない。死後の国「ヨミ」を「黄泉」と書き「アメツチ」を「玄黄」と書いた万葉知識人である。漢字には精通していたはずである。確かに万葉集には「黄葉」(もみち)の用例がある。だが当時の日本人の色彩感覚からいえば黄葉ではなく赤葉であったと思われる。

「竹敷の黄葉を見れば吾妹子が待たむといひし時ぞ来にけり」(巻15・3701)

古代の日本人の色彩感覚を調べると面白いものになる。相武台会で発表されてはいかがですか。私が参考にしたのは佐竹昭広著「古語雑談」(岩波新書))

これに対して霜田君から次のようなメールが来た。
『今まで撮影旅行などで黄葉の美しさに接する機会は余り記憶にありませんが、皇居では紅葉よりも黄葉美を堪能しました。 「もみじ」の漢字というと「紅葉」しか念頭になかったので、作品の題名に”黄葉”を入れることに一寸躊躇いがありましたが、広辞苑には紅葉・黄葉とあったのを幸いに「黄葉」を選択しました。貴兄のメールで万葉集をネットで当たった所「紅葉」よりも「黄葉」を詠んだ歌が圧倒的に多かったことを知り、貴兄のお蔭で「知」の地平線が拡がりました。 

皇居の乾通りには、明治時代に植樹されたトウカエデとイロハモミジの2種類があるといわれていますが、私の撮った黄葉の葉は皇居の紅葉と同じ葉形の「いろはもみじ」でした。

①手元の東大名誉教授久松潜一著「万葉秀歌(一)」講談社学術文庫328ページに次の記述があります。 『万葉集では「もみじ」を黄葉と書くばあいが多いことはすでにいわれている所である。 万葉時代には黄の色は なかったとする説もあるが、黄の色が認識されていることは伊原昭氏の説によって証された。』(霜田注:(いはら あき、1917年10月24日- は、国文学者、梅光女学院大学名誉教授。女性。) 

②大貫茂著「万葉の花鳥風月」に次の解説があります。 
「黄葉、紅葉を詠んだ歌は実に137首という多さである。これほど多くの歌の中で紅葉、赤葉、赤の文字を使用し、紅葉と思われるものはわずか5首。それ以外は黄葉の文字が使われたものか、色づくもみつなどと表 現されたものばかりである。紅葉が実に少なく、黄葉がほとんどである理由は、万葉歌人の多くが大和路周辺など黄に染まる樹木が多い地方に住んでいたことによるのであろう

③岩佐亮二「カエデの園芸栽培史」には次の記事が見られます。  
「万葉人がひときわ目を引く紅葉をよそに、ことさら黄葉を偏重したのは、黄土地帯に発した漢民族の、黄色を最高とする色彩感が遣唐使を介して踏襲されたためと推測される。」
以上貴兄のメール文献を含め諸説あります。
  所で、白川静の大著「字通」には「黄葉」はあるが「紅葉」は載って居りません。「黄」は元々は色彩ではなく老衰の意で、「黄葉」は枯葉色と解説していました。万葉集の黄葉の載っている和歌を一瞥したところ黄葉美の観賞よりも、移りゆく負の季節感に使われているように見受けられました。 久松教授が引用したのは柿本人麻呂が妻を亡くした悲しみを詠ったものです。

○秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも
○黄葉の散り行くなへに玉梓の使を見れば遭いし日思ほゆ

拙作品は黄葉の美を捉えたものですので、別な角度で調べてみました。
紅葉にせよ黄葉にせよこれを美として詠ったのは何時頃からだろうか? ヒントは「もみじ狩」の漢字と語源です。  モミジを美として観賞したのはどうやら室町時代あたりからの様です。此処で観賞の対象となったのは紅葉とみられます。京都の秋は何度か尋ねたが私がカメラで狙ったモミジは専ら紅葉色でした。 前掲②の地域説も一考に値します。 広辞苑には「紅葉狩」しかでていませんが、地域によっては「黄葉狩」があっても良いでしょう。 紅葉狩の起源に関する学者のエッセイ添付ご参考に供します』

さらに霜田君にメールを送る。
『よく勉強されているのに敬服します。だが「古事記」「万葉集」には「黄」(き)という色彩語の確例を見出しがたいというのが通説です。「黄葉」(もみち、またはもみぢ)と詠ませています。色彩語「黄」「黄色」は平安時代に入ってから使われた言葉です。古代では黄色は青、赤の中に含まれていました。沖縄では黄色のタオルを示しておばあさんが「青のタオルを持ってきて」といったという話が方言集に載っています。ともかく形容詞「黄色い」は近世まで下るというのが定説です』
折り返し霜田君から「納得した」とのメールをいただいた。