安全地帯(488)
相模 太郎
サルのいる幻の北辺津軽十三湊(とさみなと)
今年の干支(えと)はサルだが、1月2日の午後7時よりBSフジTVで25年にわたる青森県下北半島の日本北限のサルの一族の絆を放映、密着したカメラマンの努力には敬意を表した。小生のドライブで下北、津軽地方を2回訪問したその途次、下北半島では前述のサルのグループに2回とも遭った。ところが対岸同緯度の本州北限のサルが津軽半島にはいないと思っていたが、津軽半島北部十三(じゅうさん)湖北岸の福島城址の近くの道路沿いの土手にサルがいたのを小生が実見しビックリした。どの案内書にも書いてない津軽半島にも北限のサルが間違いなくいる。
津軽半島北辺は鎌倉時代の史書「吾妻鑑」に瞥見される安藤氏(または安東氏)が領有し、司馬遼太郎の「街道をゆく 北のまほろば」(朝日新聞社)を読んで素人ながら北のロマンに興味をひかれた。永承6年(1051)から始まった前九年の役(源頼義の安倍一族征伐)で敗死した安倍貞任の子が陸奥安東に安東氏を呼称(現在は安藤と呼称する説が多い)、内紛や一部が南部氏に滅ぼされたが、一部は北条氏得宗領(直轄領)の津軽半島北部の代官として十三(とさ)湊を本拠に北前貿易を行った水軍の雄であって、「蝦夷管領」とか「奥州十三港日之本将軍」と称した。現在五所川原市(旧市浦村)十三湖の日本海への出口に十三湊があった。
十三湖は津軽の象徴岩木山より日本海へ北流する岩木川の河口に東西7km南北5kmと広がる潟湖(太古の海が砂洲などの発達により海岸の陸側に取り残されて湖となった)である。その西、日本海に面した一本の砂丘で潟湖の明神沼と十三湖との間の南北大砂丘半島の先端部分にある河口付近の東西400m、南北3.5㎞が鎌倉時代より室町時代13~14世紀にかけ安藤氏が占有して北辺蝦夷への守りと、交易で栄えた北の港湾国際都市十三湊(五所川原市十三)があった。
(末尾の図参照、無断転写お許し下さい)
現在資料館により発掘された多くの出土品から当時の交易のようすがわかる。今は淋しい漁師町になってはいるがもとの姿は、想像を絶する殷賑を極めた港町であったのだろう。当時日本は太平洋航路がなく、京都から北海道蝦夷地には福井の小浜や敦賀・三国・輪島・秋田等を経由しての日本海航路を主とした北前船が往来していた。もちろん蝦夷のみならず大陸シベリア、中国、朝鮮とも交易があったろう。十三湊はその本州最北端の寄留港にあたる。まさに川の中州に埋もれている広島県福山市の「中世の草戸千軒町遺跡」に似て砂に埋もれた中世都市がそこにあったのだ。折よく、発掘の現場を見ることができ、門外漢の小生にも興味があった。発掘によれば、南北にメインストリートがあり、港の集落のある北半分は領主、郎党のいる武家屋敷や湊役所で、南半分は町屋になっていて、境には東西にわたり幅約10m高さ1.5mぐらいの土塁、その南側は堀跡があり完全な「かき揚げの土手」が防塁として弓矢を射る機能をはたしていたのだろうと思われる痕跡があった。
現在の湊跡は脅威ともいえる長年のものすごい大量の砂の堆積によって浅瀬になってしまい次第に衰退し、小舟が通う見る影もない入り江になってしまった。哀愁を帯びた津軽三味線が糸をひくように栄華は夢のあとになってしまったが、湊神社、湊迎寺、檀林寺跡、湖北側にある福島城址、山王坊跡、日吉神社、岩木山を望み十三湖より南方の沃野を一望に見る唐川城址など権勢を極めた安藤氏の旧跡が多数あり往時の繁栄を彷彿させる。
土地の人の笑い話だが昔、都から検地に来た役人が岩木山を見てあの北側どうなっているか?と尋ねたので向こうは海ですと答えたらそのまま帰ってしまったので北の沃野は税なしとか。有名な十三湖のしじみが入った「しじみラーメン」を食べたときの話だ。そこから南へくだると有名な遮光器土偶が出土した亀ヶ岡遺跡、北辺水田の米栽培した田舎館遺跡、北畠氏の浪岡城址、金木町の太宰治の生家斜陽館、北畠五所川原市のねぶた会館等があり、道路は閑散とし、サルに遭えれば目っけもの、名産のリンゴでもかじり往時を回想しながら、歴史探訪ドライブするには快適だ」。
(参考文献)
青森県の歴史散歩 山川出版社
中世都市十三湊と安藤氏 国立歴史民俗博物館
幻の中世都市十三湊 同
日本家系図大事典 奥富敬之著 東京堂出版
「幻の中世都市十三湊」
国立歴史民俗博物館より
(筆者撮影)
現在の十三湊
唐川城址より見る十三湖
発掘現場
日吉神社鳥居
福島城址入口
境界に残る土塁