銀座一丁目新聞

追悼録(583)

意欲を失わなかった無人島・長平

倉嶋厚著『お茶の間歳時記』(文化出版局)を折にふれて読む。「歳時記」と名のつく本が好きで「花の歳時記」「言葉の情報歳時記」「文学歳時記」など10冊ほどが手元にある。倉嶋さんの本の「無人島漂流記」の章に24歳の長平と呼ばれる若者の話が出ている。この若者の生き方が興味深い。これに目がいったのはNHKテレビでシリア難民が決死の覚悟で満員のゴムボートに乗りギリシャへ渡るドキュメントを見たせいかもしれない(昨年12月21日)。同書によると、天明5年(1785年)正月、土佐の藩米を運ぶ船が嵐にあって太平洋を漂流。乗組員4人は2週間後絶壁に囲まれた岩だらけの島に着く(東京から南に500キロにある鳥島であった)。この島にいたアホウドリを生のまま食べて飢えをしのぐ。干し肉もつくった。2年後に3人が病死する。3年後には難破船(注・大阪船)が漂着。火種を持っていた。仲間がまた出来た。さらに2年後漂流船(注・薩摩船)がついて16人となった。「ふいご」をつくり道具をこしらえ、難破船の部品などを集めて日本に帰へるための船を数年かけて作る(30石の帆船)。その船に生存者14名が乗り込み太陽と星を頼りに航海し八丈島の近くの青ヶ島に辿り着く。

長平は漂着した鳥島で12年4ヶ月も暮らした。長平が生きながらえたのには理由がある。死んだ3人はただ悲しみ愚痴をこぼして食べて寝るだけであった。長平は「必ず帰る」と決心、くだらないことは考えず適度の運動を意識的に行った。月の満ち欠けを正確に数えていたので帰国した時も数えていた日付は江戸とちがわなかった。話は飛ぶが月齢の重要さを教えてくれたのは陸士の先輩後藤四郎さん(陸士41期)であった。作戦には「月齢」が欠かせないという。昭和14年3月31日、ウスリー江で日ソ両軍の不測の衝突で日本軍に4名の戦死者を出す事件が起きた。敵の陣地50メートルのところにある4名の遺体収容を後藤さんが命じられた。後藤さんはこのころ月齢とその動きをすべて諳んじていた。動くとすれば月が没して太陽が昇る暁の30分しかないと判断した。その時が「ぬばたまの闇」であった。後藤中隊長が選んだ4名の決死隊がその闇を利用して無事遺体を収容した。

長平は心に念仏を唱え死んだ仲間の名前を墓石に刻み寺に納める遺髪や歯を保存したという。人間の生死を決めるものは「心構え」と「日常の生活態度」だということである。とりわけ「必ず帰る」と言う意欲がものいった。これは漂流しなくても人間は「意欲」を持たなくては生きて行けないということであろう。

パソコンで調べると「土佐の長平」については詳しく出ている。補足すると、青ヶ島を経て八丈島に着いた長平らはこの地で伊豆の国代官所の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られる。長平は1798年(寛政10年)1月19日に土佐へ帰還。この時、地元では長平の13回忌が営まれていた最中であったという。時に長平は37歳であった。土佐藩から野村姓を名乗ることを許された。その後、野村長平は各地で漂流の体験談を語る。また妻子にも恵まれ、60年の生涯を全うした。天保6年(1835年)であった。

(柳 路夫)