銀座一丁目新聞

追悼録(581)

出版人・岡茂雄さんを偲ぶ

岡茂雄と言う異色の出版人がいた。陸士28期で、大正9年4月1日には中尉へ進級するも、軍人の道を断念する。東大人類学教室へ入学、鳥居竜蔵(当時助教授)の元で学び、大正13年に民族学や考古学への貢献を志して「岡書院」(この看板は河東碧梧桐の揮毫)を。更に山岳書の出版を専門とする「梓書房」をそれぞれ創立する。朝日新聞の論説委員であった岡並木君が岡茂雄さんの息子とは知らなかった。私が毎日新聞の論説委員の時、環境問題の会合でしばしば顔を合わせた。外国の環境問題にも精通しており勉強家と言う印象が強かった。

陸士出身者には異色の人物が少なくない。19期に陸大に進学しながら作家の道に進んだ山中峯太郎。24期に病気のため少尉で軍を退き劇作家となった岸田国士。33期に陸士在学中に退学して京大で学び詩人となった三好達治らがいる。

岡さんがいた陸士28期は大正5年5月651名が卒業している。中将は43名、少将は46名いる。宮崎周一中将は最後の参謀本部作戦部長。戦後「宮崎日記」を残す。池田純久中将終戦時内閣総合計画局長官。森赳中将、終戦時近衛師団長で終戦に反対する青年将校の凶弾に倒れた。長勇中将沖縄の第32軍参謀長、軍司令官牛島満大将とともに自決した。一木清直少将は昭和17年8月米軍がガダルカナル島に侵攻するや飛行場奪回の命令を受けて歩兵28連隊長として1000名足らずの兵力で米海兵師団と戦い玉砕した。この期の大半は戦争末期、連隊長で活躍している。

「出版は創造と挑戦」という。知人に出版の手ほどきを受け、売れない固い書物を手掛ける。岡さんは「岩波書店」の岩波茂雄。日本一の古書の目利きと言われた反町茂雄とともに「3人の茂雄」と言われた。鳥居龍蔵の『人類学上より見みたる北東アジア』(大正13年刊)、この本は夏枯れの出版であったが初めから売れ行きが好調であった。続いて鳥居竜蔵の「日本周囲民族の原始宗教」。南方熊楠の『南方随筆』(大正15年刊)、『続南方随筆』(大正15年刊)。柳田國男の『雪國の春』(昭和3年刊)など民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を多数出版する。

岡さん自身「本屋風情」(平凡社刊昭和49年発行)を出している。この経緯が面白い。民族学者柳田国男とはその著書も出版、発行した雑誌「ドルメン(石卓)」により柳田を親炙したがこの柳田が気難しい上当り散らしたりする。一夕招いて機嫌を直してもらおうと渋沢敬三らが計画、版元として「お前も出ろ」と言われて岡さんも宴席にでた。2,3日たって岡さんが渋沢に聞くと「柳田先生は不興であった」と言う。不興のわけは『なぜ本屋風情を同席させたのか』ということであった。戦前版元の地位は低く見られていた。昔と今では大違いである。岡さんは岡書院、梓書房とも昭和10年頃に閉店して出版業界から身を引いた。亡くなったのは昭和56年9月21日。享年87歳であった。

(柳 路夫)