銀座一丁目新聞

追悼録(580)

住吉仙也さんを偲ぶ会

名医にして著名な山男・住吉仙也さんを偲ぶ会が開かれた(11月25日・東京市ヶ谷・アルカディア市ヶ谷)住吉さんは10月5日、89歳で死去した。P-29に「住吉コル」の名を残す登山家。3度出かけたヒマラヤで日本人初登頂、秋季初登頂、冬季南西壁初登頂の栄光に輝く。遺族として養子の住吉誠一郎さん(住吉さんの甥)が関西から上京された。出席者94名。うち「スポニチ登山学校」の卒業生は25名。講師7名。そのうちの一人は八木原圀明さん。初代校長で現在は日本山岳協会会長である。今回の発起人代表である。もう一人は2代目校長尾形好雄さん。現在は日本山岳協会副会長・専務理事。この日は司会を務めた。私は元スポニチ登山学校名誉校長として「偲ぶ言葉」を述べた。他に1959年にヒマルチュリ登山隊員・田辺壽さん、元日本ネパール協会副会長神原達さんがそれぞれ住吉さんとの思い出を語った。全員で献花。ついで1983年ナンガパルバット登山隊長・国井治さんの献杯。会場には『ドクトル住吉ヒマラヤ彷徨』のビデオが流された。住吉さんの遺言でこの偲ぶ会には飲みたいだけの御酒が用意された。

私の住吉さんを偲ぶ言葉。

「初対面の際、私より4,5年先輩かと思いました。意外と若く私より一つ年下でした。若いときの苦労がそうさせたのでしょうか。好奇心旺盛でニセ船医となり外国を廻り、戦後行われた新円切り替え寸前にコメを大量に買い入れて、ぼろもうけしたその才覚はただの人ではありません。したたかな住吉さん。あの世に行くには少し早すぎますよ。

住吉さんとの出会いは群馬県山岳連盟によるサガルマータ―登山です。第一次が平成3年12月、第二次が平成5年12月です。この年、登頂に成功しました。それを契機として『スポニチ登山学校』が生まれ、住吉さんとの付き合いが深まりました。

初めから気が合いました。ともに大正生まれの苦労した世代、ともに剣道は有段者でした。あなたは元外相・安倍晋太郎とは第六高等学校で1年後輩であり剣道部では一緒であったと聞きます。私は社会部、政治部の違いがあっても安倍晋太郎とは同じ毎日新聞で働いた仲間でありました。ときには息子の安倍晋三首相の事に話が及ぶこともありました。あなたの語る晋三首相の批評は辛辣でした。それよりも 折に聞く『ヒマラヤ彷徨記』は興味深いものがありました。彼が名医であるのを知ったのは友人の塩田章君の本でした。塩田君は米軍から返還された小笠原島総合事務所の初代所長でした。後に防衛施設庁長官になりました。昭和43年7月15日の事です。村の子供が盲腸になったのですが当時いた医者は内科で盲腸の手術は出来ませんでした。内地から医者を呼ぶにしても天候が悪く自衛隊機が飛べるような状況ではありませんでした。そこへひょっこり現れたのが住吉さんでした。たまたまNHKの取材班に同行して父島に来ていたのです。見事な手さばきで盲腸の手術をやってのけたと書かれていました。サガルマータ登頂前にも腹痛の隊員を「脱腸」と診断、それを手で治しました。以来”ゴット・ハンド“と崇められております。私にはまったく名医に見えません。そこが彼の良いとこでしょう。

ドクター住吉仙也は詩人でありました。ロマンンチストでもありました。ヒマラヤの花と蝶に魅せられ,鶴の群舞に酔いしれております。ヤク放牧のチベットの子供が彼につきまとい、シェルパたちが彼を慕いました。馥郁と薫る人間に人は自ずと近づくのは当然であります。

その住吉仙也さん今やなし。天、誠に無情であります。

早ければ私は10年後、遅くとも30年後にはそちらに行きます。その時、あなたは好きなお酒を、私はコーヒーを飲みましょう。今から楽しみしております。ではさようなら…」

(柳 路夫)