安全地帯(484)
信濃 太郎
新甞祭・「勤労感謝の日」考
「勤労感謝の日」(11月23日)は朝から曇りで、夕方から雨になった。津島佑子著「火の山」-山猿記・上・講談社・1998年6月1日刊)を読んだほか関東大学ラグビー対抗戦・早慶ラグビーの試合をテレビ観戦して過ごす(早稲田が32-31で勝つ・観客1万8401人)。もちろん三度の食事の前「いただきます」と言った。昔はこの日を「新甞祭」と言った。古語辞典によると、「陰暦11月の中の卯の日に行われた宮中の儀式。その年の新穀を供えて神を祭り、天皇みずからも食された。地方の農村でも行われ、村人が神を祭った」とある。『万葉集』にも詠われている。
「誰ぞこの屋の戸押そぶる新甞(にふなみ)に我が夫(せ)を遣りて斉(いは)ふこの戸を」(巻14・3460.「これは新甞の夜。夫を村の祭りに遣り妻だけが潔斎しているところへ戸を推し揺さぶって訪れて来た男をとがめる歌である」。土橋寛著『万葉開眼』NHKブックス)。さらに『万葉集』巻19・4273から4278まで6首の歌が新甞会(にいなへのまつり)の宴で読まれている。
「勤労感謝の日」は国民の祝日に関する法律 第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のを趣旨 とする。昭和23年7月に公布・施行された。 制定されて67年もたつ。その趣旨には賛成するが考え方が即物過ぎる。もののあわれを知る日本人にはなんともなじめない。
祭り起こりは神武天皇に始まる。『日本書紀』には神武天皇が自ら高皇産霊尊となり10月1日に新穀を食べられた説話が収められている。日本書紀によれば、神武天皇が道臣命(大伴氏の先祖)にいわれるには「いま高皇産霊尊を私自身が顕斉(うつしいわい・みえない神の身を顕に見えるように斎き祭ること)しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、植物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまつち)、草の名を厳野椎(いつのづち)とする」と。冬10月1日、その厳瓮の供物を召し上がられ、兵を整えて出かけられたとある。
宮中では天皇陛下が神嘉殿でその年に収穫された新穀のお初穂を天照大神をはじめ八百万の神々にお供えになり、また自らも召し上がられる。この際、奏上されるお告げ文には五穀の豊穣を神々に感謝され、国家の繁栄と国民の福祉をご祈願される。宮中祭儀のうち神代から続いているものの中で新甞祭は最も古いものであり、古来のしきたりが今によく維持されているという。
食事の際「いただきます」と言うのは五穀を神に感謝する意味が含まれている。それを学校給食で給食費払っているから「いただきます」と言う必要がないという母親がいると聞く。故事来歴を知らぬ母親のたわごとであろう。このような母親は「五穀とは何か」も知るまい。即物的な「勤労感謝の日」がもたらした悲しい日本の一現象である。