銀座一丁目新聞

安全地帯(483)

相模 太郎

新渡戸記念館の廃館の愚を正す

青森県十和田市にある新戸部記念館(1965年、開設。館長・新渡戸家が市の特別職として歴任)の存廃を巡って、十和田市と新戸部家が対立、青森地裁に提訴する事態になっている。このことをスポニチの吉永みち子さんのコラム「言わぬ損より言った損」で知った(11月12日)。パソコンで調べてみると、新渡戸記念館は耐震強度不足を理由に今年の4月から休館。地元紙も存廃問題を取り上げ、収蔵資料8000点がピンチになっているのを伝える。もめ事が起きたら原点に返り、問題の解決を探り出すのがよい。

新渡戸記念館の意義について市のホームページは次のように言う。『「願はくはわれ太平洋の橋とならん」の信念のもと、国際人として活躍した新渡戸稲造。彼の先祖は1598年(慶長3年)から約230年間、花巻の地に居住し、花巻城士の文武両道にわたる指導にあたるとともに、新田開発に情熱を傾けた一族でした。新渡戸稲造の祖父、傳(つとう)は、1855年(安政2年)、不毛の地だった三本木原への上水開削に着手し、父(十次郎)、兄(七郎)と三代にわたって、現在の十和田市発展の基礎を築きました。花巻新渡戸記念館は、これら新渡戸家の功績とゆかりの品々、さらには新渡戸稲造の世界等を紹介する記念館です。生涯を国際平和と教育に尽くした新渡戸稲造博士のルーツを、そして稲造の世界を訪ねてみませんか』

この記念館設置の精神は今、どこへいったのか。両者とも頭を冷やせ。記念館設置の精神はいつの時代になっても変わらない。十和田市にとっても新戸部 家は市の発展の礎を築いてくれた一族ではないか、歴史を忘れる者には未来はない。とりわけ新戸部稲造は「武士道」の著者だけでなく世界に知られた人物である。何故その功績を残す仕事を放棄するのか疑問に思う。耐震強度が不足であれば作りなおせばよい。予算がなければ知恵を出して捻出すべきだ。お金などどこからも出てくる。市と新渡戸家とよく話し合えばよい。訴訟などもってのほかだ。

新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳「武士道」(岩波文庫)に問題解決のヒントがある。ある学校で一教授に対する不満を理由に、一団の乱暴な学生たちが長期にわたりストライキをやっていたが校長が出した二つの簡単なる質問によって解決した。それは「諸君の教授は価値ある人物か。もしそうであれば、諸君は彼を尊重して学校に留めるべきだ。彼は弱き人物であるか、もししからば倒れる者を突くのは男らしくない」というのであった。その教授の学力欠乏が騒動の発端であったが校長の出した道徳問題に比べれば重要な問題でなく、小さな問題となってしまったというのである。 十和田市も新渡戸家ももう一度「武士道」を読み直したらいかがなものか…