安全地帯(482)
相模 太郎
上野(こうづけ)三碑を巡る
日本ユネスコ国内委員会で高崎市にある三か所の古碑が国内候補としてユネスコに推薦が決定したとの新聞が伝えた(9月24日)。29年には可否が決まるそうだ。三碑とは、高崎駅南方約10kmに点在する7~8世紀の古碑、多胡碑(たごひ)、山上碑(やまのうえひ)、金井沢碑(かないざわひ)で年号が刻まれているのに価値があり、半径5kmぐらいのなかに点在する。今は国特別史跡の案内板、駐車場やトイレ、進入し易いよう木製の階段等が整備されている。
以前より老生が趣味の古代の夢、三碑を見学したいと思っていて、探訪の計画を練っていたが、おりしもユネスコの話もあり、湘南から圏央道が通り、高崎方面へ行くのが早くなったので、三碑巡りに便利になった。幸い次女が高崎にいる娘に会いに行くというので、ついでに頼んで同乗することにした。
10月22日早朝自宅出発、先ず一番有名な多胡碑を目指す。到着したときは落ち葉が散る古代遺跡の広場は、まだ、静寂だった。数十年前訪れたとき、畑のなかにポツっと立っていた石柱は、立派なコンクリートでガラス張りの覆屋に大切に保存されていた。スイッチを入れると照明がつき説明が流れる。他の2碑と違いこの碑だけは、まばらな住宅街のなか、平らな500坪ぐらいの広場の一隅にある。ガラス越しに見る碑身は高さ125㎝、幅60㎝の角柱で,笠石の高さ25㎝、幅88㎝の方形がのっている。材質は花崗岩質砂岩で前面に6行80文字が楷書で刻まれている。字はそれほど見にくくはない。碑文は略すが、和銅4年(711)3月9日にこの地、多胡郡が諸国を管轄していた大和朝廷の弁官局からの命令を刻んだものとの説が有力で、当時この付近に郡衙(郡の役所)が置かれていたのだ。書道史上も那須国造碑(探訪済)、多賀城碑(探訪済)と共に日本三大古碑として書家のなかでは著名だそうである。
石刻文を現代語で要約すれば、「弁官局の命令として、多胡郡を設置し、上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡のなかから三百戸を分けて新しい名の多胡郡をつくり、羊に支配を任す。和銅4年(711)3月9日左中弁・正五位下多治比真人 太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊」
今より1300年ほど前の歴史のロマンだ。711年は元明天皇が奈良平城京遷都の翌年である。文中一行目の最下、興味を引くのは「給羊」(羊に給う?)という刻文で「羊が人名か?多胡郡(多くの胡人部落と解釈)に注目し、渡来人ではないか?近所に高麗神社もあるそうだ。本年の干支は「羊、人か獸か、動物の羊はそのころ日本にどんなのがいたのか?多くの学説に夢、興味津々。
覆屋のそばにはNHKテレビ「花燃ゆ」でおなじみの萩の𠮷田松陰の義弟、明治の初代群馬県令(知事)花も実もある人か、楫取素彦の歌の碑が立つ。
「深草のうちに埋もれ石文の 世にめつ(づ)らるゝ時は來にけり。
多胡碑より約20分山上碑に着く。いまはナビができて便利になった。案内書で覚悟はしていたが、山麓から急こう配の100数十段の石段を直登する。老生も歳にはかなわず、杖と手すりにすがりつき見たい一心で一汗かく。やっと上がったところに山肌を削ってコンクリートの覆屋があり隣接して小さな円墳がある。覆屋の中に鎮座する碑は高さ120㎝、幅、厚さとも50㎝の輝石安山岩でガラス越しにあまり明瞭ではないが、4行53文字が刻まれている。ここは、三碑のなかで一番古く、まだ年号のない天武天皇10年(681)放光寺の僧、長利が母の黒売刀自(くろめとじ)を隣の円墳に葬った時の菩提のための墓誌である。案内板によれば、長利母子の系譜が長々と刻まれ史料として貴重なのが判る。並列してある円墳は高さ5m,直径15m、正面に羨道が開けられ、奥に玄室のある整った古墳で中に入れる。残念ながら老生、体が曲がらず這って入れず惜しいことをした。築造は碑の建立より数10年古いのではないかとの説もあるそうだ。山の上だけあって展望がよい。紅葉の始まった田園風景、古代を想像するには持ってこいのところ、とにかくここは、刻まれた系譜と三家(みやけ―大和政権地方支配の拠点)ということば、隣のコンパクトな円墳に注目だ。ちなみに681年ごろは兄天智天皇の子大友皇子より政権を天武天皇(当時大海人皇子)が奪取した壬申の乱も終わり、古代天皇制の安定した黄金時代といわれた時代であった。
やっと下った山上碑から、車で約15分金井沢碑に着く。金井沢の橋を渡り緩やかな階段を登る。やや卵形の山上碑と同じ輝石安山岩で高さ110㎝、幅70㎝、厚さ65㎝、9行112文字が刻まれている。やや判読しにくい。かつて附近の農家が小川のほとりで、洗濯板の代わりにしていたそうだ。もっとも奈良や京都へゆくと故意に古墳の石棺の蓋石を庭園の橋に使っていることを考えれば罪は軽いが。内容は、神亀3年(726)2月29日上野国群馬郡下賛(下佐野)郷高田里の大和政権地方権力者、三家(みやけ)の経営者の子孫が先祖供養のため造立したもの。山上碑と同じく三代にわたる系譜が書かれていている。そして研究者は、古代東国の家族関係、仏教の浸透、仏教集団の成長、地方行政制度実態を知るうえでたいへん貴重だとしている。神亀3年は、聖武天皇の御代、時の政府が大いに開墾を奨励、名僧行基が布教に活躍した時代であった。
群馬県は古墳等の古代から戦国時代、近代までの史跡の整備が素晴らしい。そして、かかあ殿下に空っ風だけではない、世界に冠たる生糸、絶品のこんにゃく、ネギ、高原キャベツ、しいたけ、うどん、焼きまんじゅう、ダルマ、草津温泉をはじめ多数の温泉等々郷土名物に事欠かない。東京近郊、ぜひ探訪の足を運んでみてはいかがでしょうか。
(参考文献)
群馬県の歴史散歩 山川出版、読める年表日本史 自由国民社
(所在地)
多胡碑 高崎市吉井町多胡 国特別史跡
山上碑 高崎市山名町 同
金井沢碑 高崎市山名町 同
(写真は筆者撮影)
多胡碑覆屋
屋内の多胡碑
県令楫取素彦歌碑
山上碑覆屋
隣接する円墳
覆屋内の山上碑
小金沢碑入口
小金沢碑覆屋
覆屋内の小金沢碑