銀座一丁目新聞

安全地帯(480)

相模 太郎

名僧の死

甲府盆地の東北、塩山市にある臨済宗乾徳山恵林寺(えりんじ)は、武田氏の菩提寺で信玄の廟所もある名刹である。かつて領主二階堂道蘊が、元徳2年(1330)自宅を禅院に改め、有名な夢窓疎石を開山として創建した甲斐中心の禅林である。

信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」と領国統治をした名戦国武将であるが信濃を大方攻略し、遠江の三方が原で徳川家康を破り西へ上洛作戦を進行中だったが、病を得、死を伏して甲州へ戻る途次、信州駒場で死去する。その子四男勝頼が信玄亡き後、遺志を継いで活躍するが、直情径行の性格が災いし天下を誤り、長篠の戦いで織田、徳川連合軍に惨敗してより連戦連敗ついに、甲州東部に追い詰められ、一族自害して果て、さしもの甲斐の虎といわれた武田家も滅亡した。

信玄が最も崇敬していた恵林寺も信玄亡きあと、天正10(1582)年4月3日、織田信長軍の侵攻により連敗、遂に戦火にかかる。同寺は信玄が寺領を寄進し、永禄7(1564)年に京都より快川紹喜(かいせんしょうき)を招へいして住職としていた。侵入してきた織田軍の堂塔焼き討ちに遭い、住職とともに山門楼上に避難した一山の僧侶百十数名は無残にも焼き殺されてまった。ときに快川禅師は従容として次の偈(けつ)(仏の功徳を褒め称える歌)を唱え、火中に命を断った。

「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」
(杜荀鶴 夏日悟空上人の院に題するの詩の後半にある)

後に家康、柳澤吉保(墓あり)の修復した山門には、いま、上記の偈の札が懸かっている。(写真参照)信玄の墓所、庭園、宝物館等一見の価値のある名刹だ。

話変わって神奈川県の江戸時代、即身仏の話しである。神奈川県の丹沢山系の登山口になる多くの湧水、葉タバコ、落花生で有名な小田急線秦野駅より北、表丹沢ヤビツ峠方面に約5㎞、いよいよ山の登りにかかるところに古刹、蓑毛の大日堂がある。大きな伽藍ではないが縁起によれば創建は、天平時代(約1200年前)に遡る。御開帳の時に拝観したが、うす暗いお堂のなか、地蔵菩薩を始め、安置されている当時の木像は痛みもあるが、平安時代の作と言われ、本尊は五智如来で五体そろって残っていて神奈川県、秦野市の重要文化財になっている。

享保年間(1716~35)に木食(もくじき)光西上人という名僧が大日堂の住職を務めていた。甲斐身延の出身で22才のとき、大山の不動尊で出家した。当時荒れていた大日堂の復旧に尽力され、現在のお堂は当時のものといわれる。裏手の地蔵堂の横には光西上人入寂の地の説明板があって、そこは、周囲の読経のなか、掘った穴へ自ら即身仏(生き仏)として入定(にゅうじょう)された場所であった。みずから棺のなかへ念仏を唱えながら入り、埋葬後、上人読経の鐘の音が次第に静かに鳴り終えて仏のもとへ旅立っていった。人々はどんな思いで合掌していただろうか。「200年後に発掘」の遺言があったので、昭和10(1935)年4月8日(釈迦誕生、花祭りの日)に檀家衆により発掘、供養して改葬された。光西上人の仏への帰依、意思の強さには驚嘆する。


乾徳山恵林寺山門
(山梨県塩山市)

蓑毛大日堂
(神奈川県秦野市)

即身仏光西上人墓所
(大日堂裏)

(筆者撮影)