花ある風景(575)
並木 徹
企業のいたるところに人物がいる
安倍晋三首相は小泉新次郎代議士が安保法案について批判し、改造内閣成立前に「まだまだ雑巾がけの期間が必要」と発言したことで「無役」にしたと伝えられる(10月10日スポニチ)。上に立つものは側近に自分と意見の異なる人物を置いておかなければ問題が起きた際、十分に対応できない場合がある。企業でもそうだが人物の発掘,登用は難しい。私の知っている話をしよう。
畠中茂男君を知ったのはアジア調査会常務理事・事務局長の時であった。昭和61年5月に就任した畠中君が当時の毎日新聞山内大介社長から指示されたのは「アジア調査会の基金3億円を死守せよ」であった。その時、アジア調査会は5年間赤字続きで累積1千万円となっていた。どうすれば赤字を減らすことができるか、一つは3億円の基金を投資運営すること、もう一つは法人会員を増やして年会費(20万円)の増収を図ることである。彼は後者を選んだ。「会社四季報」から業種別リストを作成、近くの会社訪問から始めた。107歳まで生きた木彫家・平櫛田中の「いまやらねばいつできる。わしがやらねばだれがやる」の言葉をそのまま実行した。初年度は19社を新しく入会させた。翌年度から経済部の協力を得て会員拡張をした。スポニチの社長をしていた私のところにも畠中君が来たのもこのころである。もちろん入会して毎月、アジア調査会の講演会に出席、見聞を広めた。彼の在任中の10年間で合計183社が新入会した。黒字となった。講師の選定、シンポジウムや研究会のテーマなどに細心の注意を払い、時代を先取りし、時宜にあった問題を論じてもらい、大いに成果を上げた。平成元年に設けた「アジア・太平洋賞」はユニークな賞であった。事業がうまくいくには毎年のように何か価値をプラスしてゆかなければならない。畠中君はそれを心得ていた。だから毎日新聞在職時代に大阪の毎日ホールの再建、情報サービスセンターの創設など数々の業績をあげている。平成8年5月65歳の定年で畠中君はアジア調査会をやめた。この時は彼に次のような言葉を送った。「経営は人なり…と言いますが、体で分かっている人はたくさんおりません。あなたのような人は終身、専務理事させておけばよいのです。この動乱の時代”きまり”は何の役に立ちません」彼が毎日新聞の役員となって会社の経営にタッチしておれば大いに業績を上げたであろうと思う。誰かが彼を嫌ったのであろう。企業にも政治の世界でも同じである。
畠中君は中国・青島育ちである。昭和7年から昭和21年まで中国で育っている。「12年間住んだ素晴らしい青島。赤い屋根が続く太平路の洋館。緑のアカシアとポプラ並木。あの天を突くような二つの十字架尖塔のカトリック教会・・・」とその著書の中で書いている。この青島(チンタオ)の風物・風土は人間形成の上で大きな影響を与える。彼の悠揚迫らぬ態度に中国の大人の風格を感じる。畠中君の人生の歩み方に納得するものがある。残念ながら畠中茂男さんは平成26年12月25日享年84歳でこの世を去った。