銀座一丁目新聞

安全地帯(479)

相模 太郎

北条時頼の死

「いざ鎌倉」という言葉は鎌倉武士の合言葉だ。異変が起き全国の武将が非常呼集で鎌倉へ飛び出して行く様です。謡曲「鉢の木」出て来る上州佐野の武士、佐野源左衛門尉(げんざえもんのじょう)常世(つねよ)が鎌倉へ馳せ参じた時もこうだったろう。

「鉢の木」の話は、元寇に遭遇した北条時宗の父、鎌倉建長寺開基でもある第五代の名執権北条時頼が在職10年、30歳にして出家、一族の長時に執権職を譲って亡くなるまでの7年の間、最明寺入道として鎌倉山の内の別邸(今の明月院あたり)で隠然たる勢力を持っていたとき噂された全国行脚の途中のこと。この廻国話は100年ぐらい後の「太平記」や「増鏡」に書かれてあるので、真偽諸説がある。もちろん小生のごとき浅学菲才に判る訳もないが、謡曲では時頼が民衆の生活を視察して公正な政治の実現のため諸国巡りをしたときのエピソードとして謡われる。後の水戸光圀にも諸国漫遊話があるが、これはウソらしい。ただし、権力者たちは、地方へ密偵の廻国巡検使を派遣していたらしい。

上州佐野で雪にとじこめられ難儀していた僧侶を常世が助け、折悪しく薪がなく、愛蔵の貴重な鉢の木を伐って暖をとってやった。その僧侶が、時頼だとは知らず、今は、落ちぶれているが「いざ鎌倉」となれば、やせ馬にむちうち一番に駆けつけることを告げる。後のこと、鎌倉に諸将の動員令が発令され、時頼は集まった武士の中にみすぼらしい常世を見つけ、往時のお礼とほうびに鉢の木の梅、松、桜にちなんだ領地を与えたという人情話である。

弘長3年(1263)11月22日戌の刻(午後8時)、ついに最明寺入道道崇、俗名正五位下行(ぎよう)相模守北条流平朝臣時頼は死んだ。その死にざまを鎌倉北条氏が編纂した公的記録「吾妻鏡」には次のように記述している。

御臨終の儀、衣袈裟を著し縄床(じょうしょう)に上りて座禅せしめたまふ。いささかも動揺の気なし。頌(じゅ)に云はく、

業鏡高懸三十七年  (ごうきょうたかくかかぐ三十七年)
一槌打砕 大道坦然 (いっついださいす たいどうたんぜんたり)
弘長三年十一月廿二日 道崇珍重

と、云々。平生の間、武略をもって君を輔け、仁義を施して民を撫す。しかる間、天意に達し人望に協(かな)う終焉の尅、叉手(さしゅ)して印を結び、口に頌を唱えて、現身成仏の瑞相を現す。もとより権化(ごんげ)の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成してこれを拝したてまつる。・・・・・・・
(新人物往来社「全訳 吾妻鏡」貴志正造による)

この頌の「三十七年」というのは、建長元年(1249)中国南宋の笑翁妙湛禅師が死の際の「業鏡高く懸ぐ七十二」を自分の人生、三十七年と変え、下敷きにしたのであって、この頌の真偽は別とし、時頼が中国の状況も知っていたのがわかる。いま、鎌倉明月院と伊豆の国市長岡の最明寺に眠っている。

25年後、蒙古襲来で、その子第八代執権北条時宗は、文永11年(1274)10月5日と弘安4年(1281)5月21日の2度にわたり猛攻を受けたのであった。
時宗も内憂(省略)外患(戦闘、論功行賞)で苦労を一身に背負い神経をすり減らし34才で死んだ。

(参考文献)
NHK出版「時頼と時宗」奥富敬之著
新人物往来社「鎌倉北条一族」奥富敬之著

写真は筆者撮影


円覚寺佛日庵北条時宗墓所
(鎌倉)

最明寺北条時頼墓所
(静岡県伊豆の国市)

明月院北条時頼墓所
(鎌倉)