銀座一丁目新聞

茶説

日本外交に求められるもの

 牧念人 悠々

集団的自衛権行使容認を含む安全保障関連法案が成立して益々日本の外交の比重が大きくなった。古川柳に曰く「番船は風の手柄ぞ猿田彦」。

番船とは江戸時代大阪から綿・米を積んで江戸に向かう廻船で早く着けば高く値がついた。一番船、二番船などと言われた。一番船が順風にのって恙なく江戸に着く。それは神話に出てくる水先案内の猿田彦の手柄でなく風の手柄であるというのである。これを本題に即して言えば、情報を知ることによって大きな外交上の勝利を得ることができるという比喩である。だが番船の船長たる外交官の手腕も見逃せない。

「温故知新」という。歴史は我々に日本外交の何たるかを教える。まず日露戦争の講和交渉で活躍した小村寿太郎(明治44年11月26日死去、享年56歳)をとりあげる。
小村寿太郎に「外交官は嘘をいってはなりません。どうせ一度は素晴らしい大嘘をつかんけりゃなりませんから、平常嘘が多いと効目がなくなります」と言う言葉がある。

 小村寿太郎は日露戦争で外相として講和会議の全権代表となり、ロシア側全権・元大蔵大臣、伯爵セルゲイ・ユリエウィチ・ウイッテを相手に講和会議をまとめた。今の日本の外交官でヒノキ舞台の外交の場で一世一代の大嘘をつけるものがいるであろうか。明治の藩閥政治の中で宮崎・小藩飫肥藩の出身である小村が外相になったのは奇跡に近い。もともと子供の時から学業にすぐれ大学南校では2番で卒業、第1回文部省留学生として渡米、ハーバード大学で法律を修め帰国後は司法省を経て外務省に転じた。父が残した借金で苦しみ高利貸しに攻められ生活は苦しかった。友人たちの尽力でその苦境を切り抜けたものの行政整理で翻訳局が廃され仕事を失った。救ったのは外相の陸奥宗光であった。北京公使館の代理公使となる。左遷でしかも閑職であった。彼は暇な時間を清国研究に充てる。記録を読み、欧米人の清国関係の書物を読み漁った。総理大臣李鴻章をはじめ各国公使と会い、北京クラブで欧米人と交わり彼らの清国観を聞いた。これが明治27年6月の日清戦争に役立った。小村公使の機敏で綿密な情勢報告と的確な予測を受けて清国との開戦を回避不能と判断した。このとき小村は講和条件についても十分研究しておくべきだと進言している。明治27年9月には第1軍司令部付きで清国領安東県の民政庁長官となる。そこでの抜群の働きが第1軍司令官山県有朋大将、第3師団長桂太郎中将らの目にとまり、知遇を得る。明治34年には桂内閣の外相となる。これまでは背後に藩閥か政党が控えていなければ不可能な人事であった。その人事を可能にしたのは小村がいかに優れた人物であったかという証左である。外相時代、伊藤博文の反対をおしきって日英同盟を締結する。これが日露戦争をいかに有利に進めたか計り知れない。

 日露講和会議後多くの期待を寄せた国民の怒りは強く暴徒が外務省、警察、新聞社を襲った。この一連の騒動で検挙者は3百余名、首謀者と目された12名はいずれも証拠不十分で無罪となったほかは有罪となった。内務大臣吉川顕正と警視総監足立綱之はこの事件の責任を取って辞職したと「警視庁史」(明治編)はつづる。帰国直後、次男の捷治さんから事情を聞かされた小村寿太郎は「なァに、国民にそのくらいの元気がなくちゃいけない」といったという。

次に大東亜戦争敗戦時の東郷茂徳外相を登場させる。
開戦時、東条英機内閣でさらに敗戦時、鈴木貫太郎内閣でそれぞれ外相を務めた東郷茂徳が「外交の要諦とは交渉で一番大切なところに来た時、相手に『51』を譲りこちらは『49』で満足する気持ちを持つこと」との遺訓を残す。阿部牧郎著『危機の外相東郷茂徳』(新潮社・平成5年3月15日刊)は東郷茂徳を描く。軍部独走の中、和平を貫こうとした男である。ソ連モロトフ外相の話である。ソ連では外相が外国大使公邸に訪問した前例はなかった。それを破ってモロトフが日本大使公邸に来た。昭和15年10月7日正午。東郷大使は間もなくモスクワを離任する時であった。「私は東郷氏ほど誠実かつ頑強に自国の利益を主張する外交官を知らない。また東郷氏ほど偏見や悪感情なしに我々を理解してくれた外交官を知らない。彼が大使の職にあったおかげで日ソ両国の関係は大きな波状を見ずに済んだ」。ノモンハン停戦交渉,日ソ漁業交渉などモロトフは高く評価したのである。実はこの時の外務省の人事異動は英米派を一掃するため松岡洋右外相が行ったものであった。後任のソ連大使は建川美次中将(陸士13期、陸大21期恩賜)のほかドイツ大使、大島浩中将(陸士18期・陸大27期)、イタリア大使、堀切善兵衛(政友会代議士・衆院議長)らが就任した。東郷茂徳はこの人事を不当として外相からしばしば辞表の提出を求められが頑として応ぜず昭和16年10月、東条英機内閣の外相になるまで頑張った。東郷外相の下で外務次官を務めた西春彦は東郷外相について「資性明敏、所信に忠実で、ことに軍部との折衝においてこれほど勇敢率直に行動した人は、外務省内にその比を見ない」と評する(西春彦著「わたしの外交白書」文芸春秋新社刊)。戦後、東条大将とともに開戦時の責任を問われ東京裁判の被告となる。判決は禁固20年、巣鴨刑務所で服役中病気となり昭和25年7月23日、蔵前橋の米陸軍361病院で亡くなった(享年68歳・昭和53年、靖国神社に合祀)。この二人の名外交官が「日本外交が求められているもの」を明示している。