追悼録(574)
スポニチ同人の死を悼む
スポニチの物故社員追悼式に参列する(9月17日)。今回合祀されたのは4柱で総数173柱となった。OBの出席は55名であった。新任の河野俊史社長は「2019年の創刊70年、2020年東京五輪に向けハードルは低くはないけれど全社員、前を見て取り組んでいく。それが亡くなられた諸先輩への花向けである」と追悼の言葉を述べた。スポーツ紙に限らず一般紙もデジタルに押されて軒並みに部数を減らしている。スポニチの場合即売(駅売り)は半減している。新聞業界の前途は多難である。式後の直会ではOBとの話が弾んだ。いつも前向き思向の元販売担当役員の藤本快哉さんは「紙面の他社との差別化。名物記者のコラム、ユニークな野球解説」などによってスポーツ紙の生きる道はいくらでもある」という。私も同感だ。活字文化の生きるためには「創造」と「挑戦」である。新聞の原点は「大衆が興奮した時、その興奮を捉えよ」「いかなる高価な代価を払うとも、大衆を捉えよ」(いずれもウィリアム・R・ハーストの言葉)である。これを上手に紙面化すればよいだけだ。この紙面化にちょっと知恵を絞らねばならない。中森康友さんと顔があう。「君よく原稿を書いているなあ」「プラハに取材に行ったおかげで視野が広くなりました」(平成元年12月・東欧の民主化の象徴・チャスラフスカさんを取材)「視野は広く世界に」の取材原則は今も変わらないはずである。
元スポニチ登山学校校長の尾形好雄さん(現日本山岳協会副会長・専務理事)と話をする。自然とこの8月1日鳥海山で亡くなった登山学校3期生の近藤昭雄さん(68)の話になる。この登山は9人のパーティであった。料理が得意でこの日もお浜小屋で近藤さんは手作りのラスク(ビスケットの一種)をみんなに振る舞った。倒れたのはその後であった。血液がつまりあっというまに倒れ、他の山の仲間たちも手助けしてくれたが手のほどこしようがなかった。美大出の絵の先生であった。リュックサックに常にスケッチブックを欠かさず入れて山のスッケッチをしていた。谷川岳の山岳資料館には近藤さんのスッケッチが展示されている。伊豆の大仁のスポニチの山荘の各部屋の衾に平尾景三画伯が描いた野菜のスケッチがあったがその絵を見て近藤さんが「この野菜は現物を見て書いたのかそれともなんにも見ずに書いたのか」と質問したそうだ。このような質問をしたお客さんは誰もいなかったと山荘のお手伝いさんが言っていたのを思い出した。心からご冥福をお祈りする。
(柳 路夫)