銀座一丁目新聞

安全地帯(477)

信濃太郎

柳多留250年に川柳の味わいの深さを知る

小冊子「あま味」第37集(東京都台東区蔵前・『栄久堂』・20158月8日発行)をこのほど頂いた。その中に尾藤三柳(川柳家)の「啄木のアイロニー」の一文が目にとまった。そこに呉陵軒可有の句が紹介されていた。

「はねの有いひわけ程はあひるとぶ」

尾藤さんの注釈がつく。「柳多留250年の記念碑になっている代表句。飛ぶこととは縁のなさそうなアヒルも鳥の仲間だから羽のある以上は『いいわけ程』は飛翔するだろうという軽みの句」。
柳多留は正式には誹風柳多留と言う。川柳集である。企画したのは柄井川柳と呉陵軒可有。明和2年(1765年)、星運堂(花屋久治郎・注・岩波新書・山路閑古著『古川柳』による)から出版された。今年で250年に当たる。そこで川柳の原点「誹風柳多留発祥の地」記念碑が8月20日に星運堂が江戸時代に居を構えた上野広小路の一角に建てれ、その除幕式が行われた。「はねの・・・」の句が刻み込まれている。記念碑のある場所はJR上野駅下車、不忍池出口から歩いて一分、京成上野駅入り口の近く、上野公園の階段の左側にある。桶の上のアヒルの像と「川柳の原点 誹風柳多瑠発祥の地」の記念碑がある。
碑文に曰く。
「川柳は江戸時代に江戸に生まれた十七文字の庶民文芸として今日に伝わっております。川柳の名称は宝暦七年(1757年)に浅草新堀端にはじまりましたが明和2年(1765年)7月呉陵軒可有という人が初代川柳評の前句付万句会の勝句(入選句)から十七音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び今日(川柳の原点)ともいわれる“誹風柳多留“を刊行しました。このことにより川柳は十七音独立文芸として確立され、のちに全国へと広がっていきました。この付近には誹風柳多瑠の版元・星運堂(花谷久次郎)があり三代にわたり『誹風柳多瑠』を通じて(川柳風)の隆盛に貢献、川柳を『江戸文芸』の一までに育てました。『誹風柳多瑠発祥』の地は『文芸川柳発祥の地』でもあります。記念碑の『はねのあるいいわけほどはあひる飛ぶ』の句は『木綿』と号した誹風柳多瑠の編者・呉陵軒可有の作です」と記してある。

「柳多留」は句意の分かりやすいで選ばれた句集である。たとえば「おやのすね今をさかりとかぢる也」。明和4年に「初編」に続いて「二編」が刊行され、寛政3年には「24編」が刊行された。柳多留は「167編」(天保9年=1838年)まで出た。前掲の『古川柳』によれば柳多留の中で最も声価の高いのは『初編』であるという。柄井川柳は寛政2年(1790年)72歳で亡くなり、可有は天明8年(1788年)に病没(生年月日不明・年齢不詳)した。古川柳として最も古いとされるのは宝暦七年の『万句合』(柄井川柳が選者の機関紙)にある『降る雪の白キを見せぬ日本橋』である。今から258年前の江戸の中心地日本橋は降る雪も白きを止めぬほど雑踏していたというわけである。同じ年に詠まれた句に「早乙女も水がにごらざおかしかろ」がある。赤い短い湯巻をした早乙女が明鏡止水の田の面に立てばと・・変な想像する人もいれば『楚辞』の「漁父之弁」を知る者にとっては清濁に応じて世を処することを嫌って泪羅の淵に身を投じた屈原を思う人もいるかもしれない。古川柳もなかなか味合い深い。山路さんの著書『古川柳』にはいたるところに私の赤線が引いてあるがほとんど覚えていない。再読しよう。可有の記念碑はよい刺激になった。