銀座一丁目新聞

花ある風景(572)

湘南 次郎

情けは人のためならず

毎週金曜日午後8時よりNHKBSプレミアムで放映されている浅田次郎原作の連続ドラマ「一路」を見ているがなかなか面白い。9月4日放映の「二人の殿様」で、老生の青春時代を思い出して感ありであった。ドラマのあらすじは、まだ、幼子であった中山道岩村田の藩主内藤志摩守が江戸城で周囲の大名にいじめられ、途方に暮れていたのを、美濃田名部の藩主蒔坂左京太夫が助け、励ましてくれ、主君の心得を諭し、蝶の画いた扇をわたした。かれは、それを支えに生長していった努力家の青年藩主であった。

ところが、左京太夫が参勤交代で中山道を通行のおり、国元の家老の陰謀で数々の妨害を受け、ついに信州岩村田で宿泊の際、路銀62両を盗まれる。行軍の責任者は小野寺一路、彼の父が残してくれた参勤交代の記録「行軍録」を規範に一行の指揮をとっていたが、金策の当てもなく困っていたのを、左京太夫みずから志摩守にかけあいに行く。一応ことわられてしまうが、かつて貰った扇から江戸城で救ってくれた恩人とわかり、苦しい藩財政から62両を貸し出すという、原作者らしい義理人情のはなしである。

 ときはさかのぼるが、終戦直後の昭和21年夏、小生は大学生の弟と二人で中里介山が書いた有名な甲州大菩薩嶺登頂をめざしたことがある。中央線笹子トンネルを出て最初の駅、初鹿野(現在甲斐大和)駅で仮眠、翌早朝出発、日川沿いに2キロぐらいで田野の景徳院に着く。武田勝頼、北条夫人、子信勝の墓がある。武田の親戚の大月にいた小山田氏に背かれ、遂にここで自刃し、500年続いた武田家は滅亡した。その奥2キロには「風林火山」の旗指物が残る菩提寺天目山栖雲寺がある。

天目山よりは日川に沿って当時は、家もない、けものみちのような細い山道をさかのぼること5キロで古びた一軒家嵯峨塩鉱泉(現在名温泉)に着く。嵯峨塩を越したところで、小学校3年生ぐらいの子どもに逢う。これから家に帰るのだという。はだしであった。名前が古谷ごいちと覚えている。快活な坊主で案内のつもりで先をすたすた歩いて2キロぐらい登ったところにかれの家があった。炭焼き小屋のような粗末な家であった。炭焼き、林業、猟で生計をたてているらしい。ごいちも学校まで10キロぐらいの山道の往復だろう。寄って行けと乞われるまま、人の良さそうなご両親よりお茶を一杯ごちそうになり、お礼に用心に持って来た当時米軍がノミ、シラミの駆除に使う画期的なDDTという白い粉の殺虫剤を置いてきた。当時山小屋は、ノミ、シラミの巣窟であったのだ。今日登頂を終え泊まらずに塩山より帰着の予定であったので、すこしでも軽くしたかった。残念ながら、大菩薩峠で、ものすごい雷雨に遭い嶺まで行けず断念して下って来た。首に笹ダニのおみやげを付けて当時バスもない道をやっと塩山まで歩き、深更に帰った。

翌昭和22年夏当時旧制中学の教職にあった小生は、数名の生徒を連れ初鹿野駅から嵯峨塩鉱泉で一泊、大菩薩嶺登頂を目指した。夕刻宿に到着したが、当時の食糧事情は現在想像もつかぬほど悪化していた。小生のいた学校は私立であったのでそれほどでもなかったが、公立では昼飯ぬきの生徒もいたようだ。泊まるには、もちろん米持参で、宿に渡さなければ泊めてくれなかった。まして山中の一軒家である。みな用意の米を出すが、宿では変な顔をしている。何か訳がと尋ねてみて驚いた。副食は?つまりおかずは?ということである。これには、困った。生徒も小生の顔色をうかがっている。そこで思案の末、去年立ち寄った古谷さんにお願いしょうと考えた。あそこはたしか山を切り開いて小さな畑があったな。早速暗くなった山道を生徒2名連れ2キロほど登る。当時貴重な懐中電気は持っていたので、小生も若かった、なかば駆け足で。まだ、電気のない古谷さんへ一年ぶりに訪ねた。ランプのなか事情を話す。ごいちもいて、みなで気持ちよく、いろいろな野菜をたくさん採ってくれ、感謝感激、有り難くいただいて来た。反対にお礼を言われ、あの時のDDTは貴重品だったとのことだった。留守の生徒もさぞ心細かったと思うが驚いたのは、宿の人だった。どこか、畑で盗んで来たと思って疑心暗鬼、事情を話すがなかなか信用しない。ごいちのことを言ってやっと納得して調理してくれた。当時は想像もつかぬそんなに食糧が不足していたのだったが大いに面目を施すことができた。翌日は、予定通り大菩薩嶺に登頂して無事帰路に着いた。

この一件、老生の70年近く前のこと、あれから、一回も現地に行ったことはなかった。あの山道もさぞ開け、便利になったろう。そして、古谷さんご一家は?しかし、人の情けは変わることはない。
「情けは人のためならず」のお粗末でした。