銀座一丁目新聞

安全地帯(476)

市ケ谷一郎

中秋の名月に感あり

今年の中秋の名月は9月27日(日曜日)。この日が旧暦の8月15日の十五夜に当たる。

「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」。

この夜は季節の花を供え焼き団子をいただこう。宮中では吹上御殿の庭に咲く秋草を添え、枝豆,栗,柿、団子を供えるといわれる。旧暦の9月13日の13夜にも同じことをされる(今年は10月25日)。凡人は名月にいろいろ思う。そのきっかけは雑誌「偕行」9月号に載った同期生塩田章君の「中秋の名月」の一文であった。それによると、昭和19年11月のある夜。陸士16中隊3区隊(兵科船舶)は校庭で区隊長吉田武大尉(陸士54期)を中心にして半円形で座った。吉田区隊長はニューギニア戦線から着任されたばかりであった。折からの満月を見上げながら「月見れば千々に物こそ悲しけれ」と言い、しばし沈黙の後、下の句は「わが身一つの秋にあらねど」ではなく「ただ一つのアンパンもなし」と詠い、みんなを笑わせたという。戦死者よりも転進中に餓死・病気で倒れたものの方が多かったニューギニア戦線であった。無理もない話だ。
同じ百人一首に安倍仲麻呂の歌がある。

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」

仲麻呂は遣唐留学生に選ばれ、詩人李白、王維らと親交、文名を高めた。在唐54年遂に帰国しなかった。

話が少しそれる。歩兵科の私たちは昭和20年6月から長野県佐久地区に長期演習と言う名目で疎開した。その時、ひもじくて同期生が演習返りに道端に咲くツツジの花をたべた。一人の同期生が歌を一首ものにする。

「我が国の ツツジの花とは 見つれども 本科武助は 食えるかと問うらん」。

この歌には本歌がある。平安の昔、奥州第一の豪族安倍宗任が前九年の役で敗れ、京都に連行された。京都の公家たちが東国のえびすと軽蔑して梅の小枝を示して「汝の国ではこれを何と呼ぶ」と問うた。宗任が答えた。

「我が国の 梅の花とは 見つれども 大宮人は 何と言ふらむ」。

戦場に『万葉集』を携えた人は少なくない。巻7には「月を詠める」として18首がある。もちろんこのほかにもある。

「常はかつて思わぬものをこの月の過ぎかくれまく惜しき夕かも」(巻7-1069)。

話は飛ぶ。名月は人々に様々な思いをさせる。一茶の句に

「名月やとってくれろと泣く子かな」

があると思えば、

「三日月のころより待ちし今宵かな」との句も残す。

芭蕉も

「名月や北国日和定めなき」

など10句の月を詠った句がある。
権力者はどうか、平安時代中期、藤原氏の黄金時代を築いた藤原道長は

「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」

とよむ。9月8日自民党総裁に再選された安倍晋三首相はあくまでも謙虚であってほしい。心豊かな心境になってほしいと願う

「今日の月絹の雲さへなく淋し」(横山節子)