花ある風景(571)
相模 太郎
鎌倉時代坂東武者の生きざま
治承4年(1180)8月17日、平治の乱に捕えられ、伊豆韮山の蛭が小島に流されてより雌伏20年、源家再興の旗のもと遂に源頼朝は挙兵した。平清盛より伊豆に派遣されていた目代(代官)山木判官平兼隆を夜襲し、これを血祭りにあげたのはよかったが、そのあと石橋山(神奈川県小田原市石橋)で周辺にいた平家の与党に惨敗、命からがら真鶴より海路房総半島安房へわたり、翌9月三百騎をもって現在の東京湾に沿って先祖代々関係のあった鎌倉を目指す。幸いにも沿道の源家代々恩顧を受けた武将たちもあり、われも、われもと加わり鎌倉へ着いた時は、数万騎といわれる。もちろん源氏の貴種の頼朝が天下をとったときは「本領安堵」をされるよう、そして「ご恩」は「ご奉公」で返す魂胆で加勢に来たのは明白なのだが、これが鎌倉武士の堅い絆なのである。
同年6月に福原に遷都していた平清盛は烈火のごとく怒った。平治の乱で捕え、継母池禅尼の懇願でやむをえず殺さなかった頼朝が、反逆したのだから清盛の怒るのも無理はない。9月末、清盛は、「青海波」を舞わせれば天下一品の嫡孫平維盛(23才)を総大将に軍勢7万騎を頼朝追討に差し向けた。維盛は踊りはうまくとも実戦の経験は全くない。平家は武士より公家の風潮にかぶれつつあった。
それに付く武将も同様、心もとない。おまけに兵は国々のあぶれ者たち、主を持っていないから、将の下知に従うことを知らず、攻守の術もしらぬ寄せ集めのひどい連中であった。そんな平家の軍勢7万騎が京を清盛にハッパをかけられ出撃した。途中、西国は飢饉なので兵糧が少なく、おまけに徴発するにも現地の百姓に逃げられ、散々な思いをしてやっと富士川西岸まで進出し、源氏軍と向かい合ったそのときのこと、その中にまともな武将として加えられたのが武蔵国長井荘の領主斎藤別当実盛である。かれは、頼朝の父義朝に仕えたが平治の乱に義朝の死後、源家が衰退してからは平宗盛に仕えていた京方の武士である。総大将維盛は、かれなら東国のことは詳しかろうと坂東武者とはいかなるものかと尋ねた。以下平家物語の原文を紹介する。
大将軍ごんのすけ権亮少将これ維もり盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛を召して、「やや実盛、なんじ程の強弓勢兵、八ヶ国にいかほどあるぞ。」と問い給へば、斎藤別当あざわらって申しけるは、「さ候へば君は実盛を大矢とおぼしめし候か歟。わづかに十三ぞく束こそ仕り候へ。実盛程射候者は,八ヶ国にいくらも候。大矢と申すちやうの者の、十五束におとッてひくは候はず。弓のつよさもしたたかなる者五六人してはり候。かかるせい兵どもが射候へば、鎧の二三両をもかさねてたすう射とほし候なり。だいみょう大名一にん人と申すは、勢のすくないぢやう、五百騎におとるは候はず。馬に乗ッれば、おつる道を知らず。悪所をはすれども、馬を倒さず。いくさは又、親もうたれよ子もうたれよ、死ぬれば乗りこえ乗りこえたたかふ候。
西国のいくさと申すは、親うたれぬれば孝養し、忌あけて寄せ、子うたれぬればその思嘆きに寄せ候はず。兵粮米つきぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめて寄せ、夏はあつしといひ、冬はさむしときらひ候。
東国にはすべて其儀候はず。甲斐、信濃の源氏共、案内は知ッて候。富士のすそより搦手にやまはり候らん。かう申せば君を臆せさせ参らせんとて申すには候はず。いくさは勢にはよらず、はかり事によるとこそ申しつたえて候へ。実盛今度のいくさに命いきて、ふたたび都へ参るべしとも覚え候はず」と申しければ、平家のつわもの兵共これをきいて、みなふるひわななきあへり。(小学館平家物語より)
要約すれば平家軍の中では斎藤実盛を強弓使いというが、東国はそれ以上、五、六人で張る弓で、重ねた鎧を射通すような強弓使いがたくさんいる。各豪族は五百騎以上の勢力を持ち、乗馬にたけた集団である。いくさになれば親も子も必死、死ねばその亡骸を乗り越えて突き進む。
それに引き換え平家方西国の連中は、親や子が殺されればお弔いをし、思い悲しむ。兵糧が無くなれば春に田んぼをつくり、秋まで米が出来るのを待ち、夏は暑い、冬は寒いといくさを嫌う。今、そのうえ勝手を知っている甲斐、信濃源氏が富士裾野を南下し背後を突くぞ。平家の連中はこのことばを聞いて震えおののいた。
かくて、徒党で脱落や、降伏するものが出現のなか、10月20日の夜半、水鳥の音に驚いた平家軍は瞬く間に敗走したという。11月5日に帰洛したときは、維盛の手勢は十騎そこそこ、副将忠度は二十騎ほどであった。迎えた清盛は烈火のごとく怒り狂いののしり散らしたと当時の京の複数の公家の日記に記録されている。実盛もあきれて武蔵に帰ってしまったのではないか。
(註)斎藤実盛・・・・武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市妻沼附近)の領主。源頼朝の兄義平が大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)の叔父義賢を襲撃した源氏の内紛に、その子義仲を救って木曽へ逃がした人であったが、後に北陸で平家方の武将として義仲が挙兵し上洛の際、対戦、義仲の手のものに殺されてしまう悲劇の武将。
(参考文献)「平家物語」 小学館、
「鎌倉武士」奥富敬之著 新人物往来社、
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社