追悼録(571)
金子雪斎翁と大連振東学社
古いものを整理していたらアルバムが出てきた。見ると大連時代のものであった。冒頭に私が大連2中に通学した4年間寄宿舎生活を送った『大連振東学社』の建物の全景写真があった(戦後、建物は取り壊されて労働者の住宅団地になった)。次のように書かれてあった(私は17歳)「大連大仏山腹に聳ゆる白亜の殿堂大連振東学社大連本塾也。予が志学の年より17の春まで心身を鍛錬し修養せし道場なり。塾は君国日本のため有用の材を養うべく又大東亜のため満蒙の天地に奮闘する熱血の士養成のため一大人物にして漢学者金子雪斎先生の建つるところと聞く。先生は頭山満翁とともに称せられたる偉人なり。先生の説は卓見にして先見の明あり。先生去りて十有八年先生の偉なることを知る人は異口同音に曰く『金子翁今にあらしめば大東亜建設に一臂の力を与えしものなるに あ!あ!、悲しきかな』。翁の門下生として中野正剛あり、また今ときめく南京政府首席汪兆銘も翁の門をたたききしと聞く。かくなるところに4年間を過ごせし予は幸福者也。予は誓って先輩に劣らざる有能の士となるとともに一身を皇謨に殉ずべきものにならん』昭和18年弥生5日
大連2中の卒業式は昭和18年2月13日。前年の12月17日陸軍予科士官学校合格の電報を受け取っており昭和18年3月24日着校すべしの指示であった。とすれば、3月5日はすでに大連を離れて母親の実家のある愛知県岡崎市に居たころである。
金子雪斎翁はあまり世の中には知られていないが振東学社に居た頃先輩から杉浦重剛に比べられる漢学者と聞いた。作詞家の藤田まこともこの学社に居た。藤田は大正7年(9歳)小学校3年を修了と同時に大連に渡り大連では「振東学社」に入った。大連商業を卒業している。あまり学校にはゆかず専ら学社の布団部屋にもぐりこんで作詩をしていたという伝説がある。先輩同窓に緒方竹虎、中野正剛、長谷川竣、進藤一馬などがいる。中野泰雄著「中野正剛」上・下・新光閣書店)に金子雪斎翁の面目躍如とした話が出ている。朝鮮問題が出た時、雪斎翁は何らの躊躇なく「朝鮮は究竟独立させてやるのだ」と言い、人間が人間に「お前は独立していけない」などどうして言えるのか。そんなバカげた説法は、いかに巧妙に潤色しても朝鮮人はだれも耳を傾けないと言い切っている。戦前このような発言したものは金子雪斎翁を除いていないであろう。私が振東学社に居たころの振東学社総裁は中野正剛であった。その中野は学生時代、大連で金子雪斎翁と会い強烈な東洋諸民族の同族協和の精神を植え付けられ、朝鮮人に対しても台湾人に対しても中国人に対してもまたインド人に対しても侵略主義となるべきではないという信念を植え付けられたという。当時の社監は太田誠さんであった。寄宿舎に居た生徒は23名で大連にある中学・工業・商業の各学校に通学していた。食事は5つの部屋のものが1週間交代で担当した。コロッケもライスカレーも自分たちで作った。朝は午前6時太鼓の音共に起きて体操をした後、太田さんが先頭になって市内を30分間駆け足するのが日課であった。これはきつかった。お蔭で体は丈夫になった。
金子雪斎翁は大正14年10月2日死去された(享年61歳)。私が生まれて一ヶ月余しかたっていない。大連で出した漢字新聞「泰東日報」の社長も務められたというから私が戦後、新聞記者の道を歩んだのも何かの縁を感じる。
(柳 路夫)