銀座一丁目新聞

追悼録(569)

追悼の8月に思う

8月15日、友人とともに靖国神社に参拝する。同期生13人が祭られている。13柱とも陸軍航空士官学校に進み、満州で操縦の訓練中に事故死したり敗戦時、引き揚げ途中ソ連軍飛行機の機銃掃射で戦死したり、ソ連に抑留中死んだりした同期生たちである。彼らの志を引き継いで私たちは生きてきた。
予科時代の校長牧野四郎中将はフイリッピン・レイテで戦死された。その訓示「花も実もあり血も涙もある武人たれ」は生涯の教えとなった。入校早々聞いたガダルカナルで散った先輩51期の若林東一大尉の遺言「後に続く者を信じる」は忘れがたい言葉となった。
戦後,職を得た新聞の世界でもよい先輩に恵まれた。長兄の早大時代の友人磯田勇さんは当時、毎日新聞の東亜部のデスクであった。私に「一週間に一冊の本を読め」と勧めた。勉強する記者とそうでない記者との差は10年たてば歴然とするとも付け加えた。その教えは社会部デスク、論説委員の時に生きた。磯田さんは昭和28年テレビの創成期に招かれて読売系の日本テレビに移籍、報道局長、編成局長、常務となられた。磯田さんについて忘れ難き出来事がある。毎日新聞が清宮様のご婚約をスクープした朝(昭和35年3月19日)、これをいち早くキャチして電波に流したのは磯田さんのいるTVだけであった。明らかに磯田さんからの情報であった。毎日新聞で清宮のご婚約を知っていたのは担当の古谷糸子記者、宮内庁詰50年の記者歴を持つ藤樫準二記者、それに社会部長、編集局長の4人だけであった。輪転機にかけるまで誰も知らないはずであった。この日、磯田さんが毎日新聞編集局に姿を見せたのは午後10時過ぎであった(昭和35年3月18日)。かっての同僚・杉浦克己社会部長に「清宮の相手は島津と決まったそうじゃないか」とささやいたという。磯田さんはどこかでこの情報を得たに違いない。磯田さんは毎日新聞の宇都宮支局時代、大スクープをしており戦後ベストセラーとなった森正蔵著「旋風20年」には森さんを助けて健筆をふるったベテラン記者である。編集局に入った途端、日頃と違った雰囲気を感じたのではないか。情報は隠せば隠すほど漏れやすい。磯田さんは私が毎日新聞に入社した際の身元保証人であった。この時、私は警視庁クラブのキャプで清宮さんのご婚約は全く知らなかった。磯田さんは昭和47年8月8日、57歳で死去した。今年は44回忌である。思えば多くの先輩の言葉に発奮、支えられて生きてきた。感謝のほかない。

(柳 路夫)