ある男の戦後70年「収支決算書」
牧念人 悠々
終戦をどこで迎えたかである程度その人の一生が決まるといわれる。そうかもしれない。
人間の「収支決算書」は来年度の利益を今年の分に回すとか今年の損失を来年度に廻すといったごまかしは利かない。その人が生真面目に生き多分その人に跳ねかえってくる。努力、勉強、生き方が人生の「収支決算書」には大きな比重を占める。戦後70年の夏を迎えた今年はとりわけ感慨深いものがある。この間、平和であったのは何よりも幸せであった。
昭和20年8月15日は陸軍士官学校59期の歩兵科の士官候補生として同期生500人とともに西富士野演習場で迎えた。昭和天皇の「玉音」は此処で聞いた。「生き恥をさらしても日本のために尽くせ」の生徒隊長の別れの訓示を受けて8月31日、愛知県岡崎の母の実家に復員した。その日は自分の20歳の誕生日であった。
2年5ヶ月の陸士教育は無駄ではなかった。いずれ戦場で小隊長として死ぬ身であった。本科在校中「ぶざまな格好で死にたくなかった」。どうしたら「うまく死ねれるか」を考えた。その結論は「責任を果たす」であった。与えられた仕事を「責任感を持って」やり遂げれば死もこわくはないということであった。同期生との固い絆はこのようにして生まれた。得難い財産である。
戦後、新聞の道に進んだ。警視庁記者クラブノキャップを含めて警視庁には5年半お世話になった。暇なときには「少年課長」や「警備課長」を尋ね雑談した。二人とも後に警察庁長官や宮内庁長官を務めた人で教養豊で話が面白かった。もっとも「保安課長」には”タイム式競馬”の極意を教わった。キャップの時、警視総監に「あなたは人の好き嫌いが激しいが人には短所と長所がある。だから長所だけを見てつきあうようにすればよい」と忠告を受けた。それ以後この忠告を守っている。人生が豊かになった。これなどは「予定外収入」であろう。
事件は記者を鍛え成長させる。昭和23年7月の「下山事件」は真実が「自殺」なのに毎日新聞は「自殺説」他社は「他殺説」とリいまだに不明とされている。下山国鉄総裁の轢断死体が見つかった現場で1週間取材した。事件報道に権力が介入した事実も知った。「造船疑獄」事件も取材。「指揮権発動」も目の前にした。「事件」の教訓は己の血とも肉ともなった。部長となり事件を処理するうえで「作戦要務令」が意外に役に立った。
社会部長として指揮した「ロッキード事件」では成果を上げた。当時論説委員であった私を社会部部長に要請したのは同期入社の編集局長であった。入社時から気の合った友人であった。その後、編集局長、取締役西部本社代表、スポニチ社長へと進んだことを考えれば友人に恵まれたというべきであろう。上司にも恵まれた。「月4冊の本を読め」「ひまがあったら映画・音楽会、展覧会に足を運べ」と教えてくれた。当時の社長は三度も喧嘩をした私を最後まで温かく見守ってくれた。ある上司の私の評価は「直情径行・頑固・他との協調性なし」であった。だが毎日新聞と言うところはひたむきに仕事を成し遂げる男を評価する懐の深いところがあった。それなりの「実績」を上げた。経営は「月次」の積み重ねである。月次が赤字では問題にならない。「毎日新聞百年史」には私の名前が挙がっている。「経営は人なり」と言うがそれは真実である。スポニチ時代の最大の収穫は阿久悠さんを知ったことだ。「時代の壁から跳ね返ってくる言葉が人の心を捉える」は心に残る。数々の歌謡曲の名作を残した作詞家ならではの名言である。昨今は陸士の同期生と切磋琢磨する機会が多くなった。新聞に進んだ理由は「報道の自由のため」とか「国民の知る権利擁護のため」と言った高尚なものではなくただ「食うため」であった。それが私の生涯の仕事となった。生き恥をさらして生きてきた私がこれからも強調したいのは「自分の国を守るのは自国民である」という自覚のない国は滅亡するということだ。戦争はあくまででも避けるべきだが事の是非を問わず不法な挙動に出てくる国がある。それを防ぐために集団的自衛権容認問題があり集団的保障の問題が論議されるのだ。この問題が一番気にかかる。戦後70年を迎えた私の「収支計算書」は私の「記者生活の歴史」そのものである。