追悼録(568)
友人根上磐さんを偲ぶ
毎日新聞社会部で一緒に仕事をした根上磐さんを偲ぶ会が開かれた(7月22日毎日新聞東京本社・毎日ホール・5月19日死去・享年80歳)。出席者は148人を数えた。面倒見の良い人で「磐さん」と慕われた。他社の元事件記者たちや多くの女性の姿も見られた。司会は堤哲さん。根上さんの社歴は多彩である。群馬県の渋川通信部を振り出しに社会部、中部報道部長、東京本社生活家庭部長、運動部長、地方部長、事業本部長、取締役中部本社代表、東京本社副代表、名古屋キャスルホテル社長などを務めた。朝比奈豊毎日新聞社長も元警視庁広報課長・元参議院議員の依田智治さんも挨拶に立って彼を偲ぶ話をされた。産経新聞ワシントン駐在客員特派員古森義久さん(元毎日新聞記者)も「私の記者生活の出発点をより豊かにしてくれた」とメッセージを寄せた。
社会部がまとめた「磐さんの想い出」が根上さんの人柄を如実に表して面白い。人生の哲学がある。警視庁記者クラブ時代キャップ「辞めちゃえ」と言われた記者に「短気を起こすな。忘れなよ」と慰める。先方の親に結婚を反対されている部下のため親を説得して失敗するとその部下に「諦めな。いやなら逃げな」と言い決断させた。お蔭でその部下は小さな荷物だけできた奥さんと今なお仲良く暮らしている。父親は毎日新聞のOBで後に御殿場市議会議長を務めた。部下をご馳走するため遺産の山を売った。銀座のバーでご馳走になった人も少なくない。その性格は「豪放にて細心。情厚くして明朗」であった。
私が社会部長の時はサブデスクでロッキード事件の「児玉番」を担当した。世田谷にあった児玉誉士夫邸の張り込みの記者の指導・手配である。事件が終わって磐さんが企画、高橋豊さんがアンカーで『児玉番日記』(毎日新聞社会部編・毎日新聞刊・昭和51年7月発行)が緊急出版された。堤さんの話によると、本に名前の載っている「児玉番」は、45人。社会部から22人、地方支局からの応援が23人。(偲ぶ会出席者に週刊朝日編集委員の山本朋史さんがいた。当時静岡支局、朝日の女性記者と結婚して、朝日に転社した。常田照雄毎日ホールディング専務も水戸支局から応援の児玉番をやっている)児玉番の構図は根上サブデスク―堤児玉番キャップーサツ回り(サンデー毎日から来た高橋豊、安藤守人、吉野徹直の3人の他は若い記者)。大学ノートに記したものを高橋、安藤らが読めるようにして、全体の状況を堤さんが加筆した。執筆作業の初日は、築地のふぐ料理店。秋の彼岸から春の彼岸まで、半年しか営業していない超高級料亭。休業中の大広間で、磐さんの掛け声で執筆。女将・山本弘子さんが偲ぶ会に顔をみせた。
本はよく売れ、社会部の財政に貢献したと聞いた。この本には彼の名はなく「Nサブデスク」で登場する。この年の日本ダービ―を見事当て児玉番を喜ばせた話も出てくる。会場では高橋さんが当時の出版の苦労話をした。根上さんは抜群の事件記者であったが私は根上さんが偉くなり活躍するとは夢にも思わなかった。人が大きく伸びるのはひとえにその人の人柄に由るようだ。大坪信剛社会部長が「磐さんの想い出」にしたためた「社会部は根上さんや先輩方の築いた歴史を引き継いで今も走っています」の報告を20年間(昭和38年から昭和57年まで在籍)も社会部記者生活をおくった根上磐さんは天上で嬉しく聞いたことであろう。
心からご冥福をお祈りする。
(柳 路夫)