銀座一丁目新聞

安全地帯(472)

相模 太郎

借金棒引き

「徳政」という便利?なものがあった。「徳政」とは古く中国の書籍「春秋左氏伝」にある恵み深いまつりごとのことを言うが、かつて日本にも奈良時代より大災害などで百姓民衆が塗炭の苦しみを味わっていて、年貢も取り立てられぬ時、また、中世になっては幕府の仁政として売買地の取戻し、債務債権の破棄を定めた「徳政令」とし、政治改革をしたのだが、簡単に言えば、借り手のお助け、つまり「借金棒引き令」なのだ。

奈良市の新薬師寺の近くを通り、柳生から伊賀上野へ通じる石畳の古道柳生街道(滝坂道)を登ると、沿道には寝仏、夕日・朝日観音、首切り地蔵、春日山・地獄谷石窟仏が多く残っていて、周囲は鬱蒼とした春日山原始林(国天然)だ。石切峠をあえぎながら過ぎると柳生の里はもう近い。そこには珍しい借金棒引きの痕跡を残す面白い遺跡がある。柳生と言えば剣豪のふる里として柳生家歴代の墓所、菩提寺の芳徳寺、藩陣屋跡、家老屋敷などが残るが、その部落の南に高さ3メートルほどの花崗岩の大石に地蔵の磨崖仏が彫られている。年代は元応元年(1319)に彫ったもの。人々は疱瘡地蔵といい、修復前は石が剥落しお顔が疱瘡(天然痘)にかかったようだったらしいとか、疱瘡よけ祈願とかいわれる。その右下に幅27cm縦33cmの枠が刻まれ、なかの陰刻された銘が国史跡「正長元年柳生徳政碑」としてその歴史を物語っている。私の訪れたころは不届き者が、拓本を取らず墨汁を塗って紙を貼り印刻の文字を取ってしまうので、下記の写真のように文字の判別ができなかった。いまは、屋根付きの囲いできれいになったようだが銘はどうなっているか?
この印刻は「正長元年ヨリ サキ者 カンヘ四カン カウニヲイメアル ヘカラス」とされている。「正長元年(1428)より先は神戸四カ郷に負い目あるべからず」と読む。神戸四カ郷とは大柳生・小柳生-阪原・邑地の四カ村のこと。まさに正長の土一揆の記念碑、民衆たちの喜びが聞こえて来るようだ。高校の教科書にもあるようだが、当時足利幕府が徳政令を出した記録がなく、これはあくまで民衆側の立場からの資料らしいのでそのスジの教師には喜ばれそうだ。

ちなみに、この世の中、徹底してカネの無い奴は強い。ヨーロッパが引っくり返るような騒ぎを起こしたギリシャの「分」をわきまえぬ振る舞いに賛成か反対か。読者諸氏はどうお考えか。分際、分限、応分、過分の「分」のこと。常識では、「分相応」にカネがなければ麦飯を食うんだろうが、やりたい放題、いざとなったら開き直り、カネを取り立てに行ったら自己破産を宣言、「借金棒引き」ハイそれまでよ。貸主はどうすりゃいいの?もっとも当方にも国立競技場の設計を「分」を忘れ理想に走り、血税で集めた国費に大損害を起こしているが、これも責任のたらい回しをして最後は麦飯でも食べ、お茶を濁して棒引きか。
また、旧聞になるが21.9.29の産経新聞の「風を読む」コラムによればK郵政改革金融相がモラトリアム法案構想として中小企業向け融資、住宅ローン返済を3年程度猶予しようという意見を述べたそうだ。(おカミのお金、世に言う「亀の子の木登り、自分の腹は痛まず」・・・筆者説)。論説委員長は一揆も起こさず、餓死者もでないのに支払猶予が必要なのか。言語同断と憤慨している。
注・出典・山河出版社 「奈良県の歴史散歩」、 東京堂出版「鎌倉遺文にみる中世のことば辞典」、 新人物往来社「中世用語辞典」佐藤和彦著