銀座一丁目新聞

茶説

戦後70年を迎えた今年に見る「父と暮らせば」

 牧念人 悠々

作・井上ひさし、演出・鵜山仁のこまつ座公演「父と暮らせば」をみる(7月8日・紀伊国屋サザンシアター)。このお芝居はここの公演を終えると10月まで全国27ヶ所で上演される。戦後70年を迎えた今年、人間は愚かにも原爆の悲惨さむごさを忘れて核兵器使用の危機が一段と高まっている。井上ひさしがこの芝居上演に当たって(1999年5月)残した「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」の言葉が甦ってくる。「なにもかもなくし手に4まいの爆死証明書」(松尾あつゆき)の句が胸に刺さる。
今年の配役は昨年と同じ。福吉竹造は辻萬長、福吉美津江は栗田桃子であった。事情が違うのは栗田桃子が昨年3月、父蟹江敬三をなくしていることである。栗田桃子の芸に厚みが増したように感じられた。
時・昭和23年7月。
場所・広島市、比治山の東側、福吉美津江の家。

「父と暮らせば」をみるのは5回目である。そのつどあらたな感慨を覚える。いつ聞いても美津江さんの言葉に泣かされる。「うちよりもっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。うちがしあわせになっては、そがな人たちに申し訳が立たんのですけえ」また「うち、生きとるんが申しわけのうてならん」ともいう。美津江には原爆投下された日、火の周りに襲われて父親の竹造を見捨てて逃げたという後ろめたい気持ちも残っている。
 原爆の威力について竹造の言葉。「爆発から一秒あとの火の玉の温度は摂氏1万2000度じゃ。あの太陽の中心温度が6000度じゃけえ、あのとき、ヒロシマの上空580メートルのところに太陽がペカーッ、ペカーッ二つ浮いとったわけじゃ。地面の上のものは人間も鳥も虫も魚も建物も石灯籠も一瞬のうちに溶けてしまうた…」  原爆の悲劇は語り継いでゆかねばならないと思う。新聞は「未亡人泣かぬと記者よまた書くか」(佐々木 巽)…