追悼録(567)
昭和天皇による「終戦放送」を企画した男たち
毎日新聞で一緒に仕事をした久富勝次さんからこのほど手紙と父達夫さんの資料をいただいた。また8月1日の夜、NHKプレミアムで「玉音放送を作った男たち」が放映されるのを知った。本紙は平成25年11月1日号「追悼録」で「特ダネ号外」を出した久富達夫さんを取り上げた。今回さらにこれを敷衍したい。
昭和20年8月15日正午、昭和天皇はラジオの前で「終戦の詔勅」を読み上げられた。この詔勅により大きな混乱もなく敗戦処理がすすんだ。当時、天皇が直接、国民に向けてお話しされることは前代未聞であった。「玉音放送」を天皇に進言したのは下村宏情報局総裁であった。このアイデアを出したのは情報局次長の久富達夫さんであった。久富さんは毎日新聞の前身・東京日々新聞の名政治部長と言われた人である。当時下村情報局総裁の秘書官をしていた川本信正さん(元読売新聞記者)が「久富さんと終戦工作」の一文を残している。それによれば、鈴木貫太郎内閣の組閣に当たり下村情報局総裁(国務大臣)を選んだのは首相自身だという。下村さんは当時NHKの会長で全局長を集め「私は鈴木内閣には終戦をやるために入る。私はたとえ殺されてもよい。この内閣で終戦をさせる」と別れの挨拶をした。下村総裁の意気込みが現れているこんなエピソードがある。鈴木内閣発足早々の4月14日、空襲で明治神宮が焼けた。これまで神戸の湊川神社、大阪の四天王寺、東京の浅草の観音が空襲で焼けても軍は報道させなかった。これまで神社消失は新聞に一行ものらなかった。それをあえて明治神宮焼失を報道した。
玉音放送の話が出たのは昭和20年8月1日の事である。下村総裁、川本秘書官、久富次長の3人が官邸に集まった。この3人は下村総裁が日本体育協会の会長の時、久富さんが東日の政治部長をしながら体協の理事を兼務、川本さんが体協出入りの読売新聞運動部記者と言う間柄であった。いわば「体協トリオ」であった。
久富次長が切り出した。「終戦するには一つの形というものがある。それには陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。つまり陛下が国民にじかに終戦を宣言される。それが日本と言う国の建前から言っても一番いい方法ではないか」
敗戦で何が起きるかわからない。暴動、クーデター…
終戦を決めたら間髪を入れず陛下にご放送をお願いする。陛下のお力でしかこの難しい局面を打開できないというのである。
だが、当時としては陛下にご放送をお願いするのはとんでもないことであった。2600年記念式典の際、NHKの実況放送に陛下のお声がマイクにちらっと入ったというので大問題になった。また下村さんがNHKの会長時代に、議会の開院式に賜る勅語をそのままマイクを通じて国民に流すことを発案したが頭から問題にされなかったばかりか、そういうことを考える自体、怪しからんと言う事であった。下村総裁は久富提案に即座に賛成し「直接陛下にお逢いしてお願いしてみよう」と言うことになった。直接、下村総裁が陛下とお会いになったのは8月8日午後2時頃であった。会見は30分と言う約束であったが2時間になった。『木戸日記』によれば、日時は8月11日(土曜日・晴)で、陛下とお会いになったのは午後1時35分から2時半まで。ご文庫にて拝謁とある。下村総裁は車の中で川本秘書官に「陛下は承知してくださった。私が陛下にマイクの前におたち下さいと申し上げると陛下は必要があればいつでもマイクの前に立つとおしゃったんだよ」と語る。下村総裁は目にうっすらと涙をためていたという。久富さんは戦後、日本教科図書販売社長、国立競技場会長などをつとめた。昭和43年12月29日、享年70歳でこの世を去った。
(柳 路夫)