銀座一丁目新聞

花ある風景(566)

並木 徹

映画「日本で一番長い日」を見る

監督・脚本原田真人の映画「日本で一番長い日」を見る(7月10日。日本記者クラブ試写会・ロードショーは8月8日から)。戦後70年を迎え、映画を見ながら敗戦当時を振り返り昭和天皇をはじめ先人たちがいかにして戦争を終結するために苦心し苦労したかを勉強し直した。昭和20年4月7日、鈴木貫太郎内閣が登場する。
首相推薦の重臣会議では東条英機元首相、広田弘毅元外相は畑俊六大将を推し、平沼騏一郎元首相、近衛文麿元首相、若槻礼次郎元首相は鈴木大将を推した。なお阿部信行元首相は朝鮮総督で東京にはいなかった。鈴木大将は天皇に「自分は生来の武弁であって、政治に全くの素人、老齢で耳は聞こえず重大な過ちを犯しては申し訳ないから」と辞退申しあげたが陛下は「他に人がいない。耳が聞こえなくてよいからやれ」と仰せになった。鈴木大将、77歳、陛下44歳であった。
鈴木大将は海兵14期、日本海軍水雷術建設の功労者の一人として知られる。「鬼貫」の異名をとる実戦の雄であった。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長歴任の後、昭和4年から昭和11年11月まで侍従長を8年間務め、陛下の信任は極めて厚かった。陛下はことのほかその毅然たる風格を愛したといわれる。2・26事件では重傷を負った。この際、大将を庇った妻たか(旧姓足立)は東宮侍従、丸尾錦作の下で陛下の母代りとして奉仕した。 鈴木首相は表面上、最後まで戦争をするといったが腹中では終戦に向けた工作を続けた。
東条大将(陸士17期)は鈴木内閣誕生に「平和にならぬか」と懸念する。4月6日夜にすでに憲兵司令官大城戸三治中将(陸士25期)は吉積正雄軍務局長(陸士26期・東大政治卒・中将)に「鈴木大将は日本にパドリオ政権の樹立を企図する算があるから組閣を阻止しなければならない」との意見を述べている.吉積中将も報告を受けた杉山元陸相(陸士12期・小磯内閣の陸軍大臣から第1総軍司令官に転出。9月12日自決)も根拠のない憶測として取り上げなかった。
鈴木首相はもともと対米戦争には反対であった。昭和16年9月28日総力戦研究所で開かれた机上演習の結果「対米戦争は必敗」を知っていたからでもある。大正13年、連合艦隊司令長官としてサンフランシスコに寄港した際、歓迎会の席上「日米戦うべからず」と述べた信念は首相になってもいささか変わらなかった。
「終戦の聖断」をひきだしたのは鈴木首相の功績である。その前に陸相阿南惟幾大将(陸士18期)に触れねばならない。時に59歳。昭和4年8月から4年間、侍従武官を務め陛下のおそばに仕えた。徳将と言われた。公正無私、外柔内剛、挙措端正であった。米軍はすでに沖縄に上陸、戦局は好転し難かった。軍閥政治破綻の中、陸相を求めるとすれば阿南大将しかいなかった。前の小磯国昭内閣の時、すでに陸相に阿南大将を推す人があった。参謀総長・梅津美治郎大将(陸士15期)であった。ともに大分県人、歩兵第1連隊の出身で若いときから親しかった。梅津が陸軍次官の時、阿南は兵務局長と人事局長を務める。阿南大将の陸相就任で梅津参謀総長とのコンビによって政戦両略の一致が期待され時宜に適した人事であった。阿南大将は「鈴木内閣では辞職は絶対にしない。国を救うのは鈴木内閣だ。最後の最後まで鈴木首相と事をともにしてゆく」と言う覚悟であった。この内閣に阿南大将の親友で同期生の安井藤治大将が無任所の国務大臣で入閣したのは注目すべきことであった。安井は昭和16年12月予備役に編入され陸軍を去っている。陰に陽に阿南を助けた。長崎に原爆が投下された8月9日夜、「陸相が戦争継続を強く訴えるほかない」と忠告する。安井は富山県人。陸士、陸大(25期)ともに恩賜、ロシア駐在武官。陸軍次官、第2師団長,第6軍司令官を歴任する。2・26事件の際は東京警備参謀長(阿南大将はこの時東京幼年学校校長)であった。世間では無名であった安井藤治中将を無任所大臣に阿南が推薦した時、鈴木首相は「それで結構だ。私は阿南陸相の言うことは万事無条件に承諾することにしている」と言ったという。この信頼関係は表面上意見の相違があっても終戦まで崩れなかった。
昭和天皇が「戦争終結」を発言されたのは昭和20年6月22日であった。沖縄戦終結の前日である。懇談という形式で戦争指導会議の6人を呼んだ。鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南陸相、米内光政海相、梅津参謀総長、豊田副武軍令部総長ら。この日、陛下はしきたりを破って最初に発言された。「この際今までの観念にとらわれることなく戦争終結についても速やかに具体的に研究を遂げてこれが実現に努力することを望む」。ここで国策としての戦争終結の第一歩が踏み出された。木戸日記によれば鈴木首相は「仰せの通りでその実現を図らざるべからず」と奉答す。米内海相は「今日その時期なれば速やかに着手することを要すると奉答。東郷外相もまた、之を補足して意見を言上す。梅津総長は「異存なきもこれが実施には慎重を要する」と奉答とある。ポツダム宣言受諾の最後の御前会議は8月10日に開かれた。出席者は首相のほか平沼、米内、阿南、東郷、梅津、豊田6人であった。国体に条件を付するのは全員一致であったが阿南、梅津、豊田の3人は保障占領を行わないこと、武装解除と戦争犯罪処罰は我が方で行うことの3条件を加えて交渉することを主張し、戦争の現段階ではこの交渉の余裕はあるという判断であった。鈴木、平沼、米内、東郷の4人はその余裕なしという議論であった。そこで首相は陛下に両論いずれかに決していただきたいと「聖断」を求めた。陛下は「ポツダム宣言受託」と言う東郷外相案に賛成と仰せになった。「私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬ」と思われた。この会議の後、陛下は阿南に「娘の結婚式は無事すんだのか」と声をかけられた。変わらぬ陛下の優しさに胸を突かれた阿南であった。5月27日、長女貴美子は海軍主計大尉・秋富公正と九段下の軍人会館で結婚式を挙げたばかりであった。
かくて終戦へ・・・事態は急展開してゆく。終戦の詔勅文案の作成、玉音放送録音、一部将校たちの反乱、森赳近衛師団長(陸士28期・中将)刺殺事件。その中で阿南は陸相官邸で自決した。「一死 以て大罪を謝し奉る」。阿南大将がいたからこそ陸軍は「戦争継続派」と「和平派」にわかれて暴発することなく鉾をおさめることができた。陸軍は最後に「徳将」を残した。「判断に迷ったら徳義をとれ」の遺訓は名言である。
映画を見終えて頭に浮かんだのは昭和天皇がかって御前会議で重臣たちに詠まれた明治天皇の御製であった。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」