銀座一丁目新聞

 

追悼録(566)

榎本武揚を偲ぶ

幕末から明治時代に活躍した榎本武揚はロマンの人であった。英雄ナポレオンの末路を読んだ詩がある。

「長林の煙雨弧栖を鎖す
末路の英雄意転た迷う
今日弔来の人を見ず
覇王樹の畔鳥空しく啼く」

榎本がオランダに留学したのは文久2年9月11日(1862年11月2日)。軍艦操練所からは榎本のほか沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、田口俊平、蕃書調所から津田真道、西周(帰国後幕府開成所教授となる)、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が加わっている。長崎から、オランダの商船「カリップス号」で出港、バタビヤを経て文久3年2月8日(1863年.3月.26日)にはセントヘレナ島のナポレオンの古跡を訪ねている(4月16日にオランダに到着)
それから7年後自分が敗残の将になると夢にも思わなかったであろう。
後にこの5年間のオランダ留学が、詳しく言うと一冊の本が榎本の命を救うことになる。戊辰戦争最後の「函館五稜郭の戦い」の時の出来事である。官軍の猛攻の前に総大将榎本は落城前に切腹を覚悟する。そこで気が付いたのは座右の書『海律全書』。国際法について書かれた本である。明治もすでに2年たつ。日本は国際社会に国を建ててゆくことを決め、列国との間にも条約義務も生じている。これからは国際社会の中で堂々と主張し外国の侮りを受けないようにしなければならい。その武器となる本であると官軍の参謀・黒田清隆に贈った。黒田はのちに北海道開拓の基礎を作り、高官ともなり首相も務める。情の人でもあった。明治2年5月16日午後、官軍の総攻撃を前に黒田は榎本に「これより総攻撃を開始しようと思うが準備はいかがであろうか,糧食弾薬が不足なら我が方から補給してもよろしいがいかがであろうか」と伝えている。榎本が断ると酒5樽を送ったという。五稜郭陥落後、榎本は部下の諌めもあって生き延び獄に入る。黒田や福沢諭吉等の助命嘆願があって明治5年特赦で出獄。明治7年1月,駐露公使となる。外交上の重みをつけるために海軍中将になり、千島樺太交換条約をまとめ上げる。ベテルスブルクではロシア皇帝に好ましい人物と思われ厚遇されたという。榎本と言う人は社交的で気をそらさず、人情の機微に通じていてしかも能力も高い人物であったようである。その後、明治政府では高位高官に昇る。明治41年10月、73歳で死去する。

「五稜郭 落城 目前
 一書を呈し 国運を開拓
恥を忍び登る 高位高官
世情かまびし 毀誉褒貶
古来英雄 我が道を往く」(詠み人知らず)

(柳 路夫)