安全地帯(470)
−相模 太郎−
わが著書「犯罪捜査法」の想い出
毎日新聞で一緒に仕事をした堤哲君からこのほどメールが来た(7月2日)。私が昭和37年に出版した「犯罪捜査法」(共著・山崎宗次・同年9月20日発行・桜桃社)を国会図書館までいって読んだと感想を送ってきた。
「本日国会図書館で読んできました。懐かしかった。吉川線とか、リュウを追えとかハコノリの条件とか、殺し3年・火事8年とか。私が買った『犯罪捜査法』は、渋谷署のサツ回りになったとき共同通信の1年生記者に贈呈しました。その記者は、共同通信が出版した『共同通信社会部』のアンカーとなり、のちに社会部長。さらに専務理事にまでなりました。牧内イズムが、共同通信にまで伝播したということです。『犯罪捜査法』執筆は、警視庁キャップ時代だったのですね。事件記者の本筋にいたとは、申し訳ありませんが認識なしでした。論説委員、頭で書く派と思っていましたので 失礼しました」
私の手元には20冊ほどあったがすべてプレゼントして残っていない。仕方なくパソコンを通じて1冊購入した。
この本を出版したのは警視庁記者クラブ(七社会と言った)のキャップ時代である。原文兵衛警視総監の序文まである。キャップは昭和36年8月から1年半務めた。記憶に残る事件は36年12月に起きた三無事件である。12月11日夜、警視総監の恒例の新宿歌舞伎町の巡視に同行してそのまま帰宅した翌朝、事件関係者が一斉に逮捕された。その中には同期生もいた。当時、警視総監はそのようなそぶりは全く見られなかった。特ダネは何処にも落ちているということである。
「犯罪捜査法」は出版社がつけた題名で、新聞記者の取材の原理原則を事件に即して物語風にまとめたものである。事件記者の私は取材原則をつくる癖があった。たとえばちょっとしたお金持ちが殺された場合は「近くの銀行を当たれ」とか事件を捜査中の警察署の「近隣の警察署も警戒せよ」とか取材原則を作った。そうすれば特落ちすることはなく、特ダネをとる機会さえある。記者は発表待ちをするのでなく考えて取材しろということである。もちろん今の時代にはその原則が使えないものもあるが経験した事件にはその都度、原則的な教訓が含まれている。それは今も昔も変わらないと思う。
吉川線とは自他殺を決める一つの決め手で、警視庁の吉川澄一元鑑識課長(のち警察学校教授・昭和25年10月死去・享年64歳)が「絞殺の場合、首にいくつかの爪痕が見られる場合が多い。この”ひっかき傷“は被害者が絞めている犯人の腕を取り除こうとして自分の頸部をひっかくものである」と法医学会で発表されたことからその名がある。私は鑑識の神様と言われた岩田政義鑑識課長から聞いた。岩田さんは暇なとき必ず本を読んでいた。物知りであった。私が初めて警視庁記者クラブ詰になったのは昭和25年1月からで4年ほどである。この間、岩田鑑識課長のところによく遊びに行って話を聞いた。しばしばその話が取材の上で役に立った。岩田さんには毎日新聞から出した『鑑識捜査35年」(昭和35年8月発行)と言う名著がある。その内容は門外不出の警視庁捜査1課事件簿ともいうべきもので貴重な教訓を含んでいる。これこそ「犯罪捜査法」である。今読んでも面白い。
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